みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,041

「世界のガーデン」第六章:「露壇式庭園」とその代表作品

 

第23回:「露壇式庭園」アラカルト

 

「露壇式庭園」について検証中。これまでに「メディチ家」「ランテ荘」「エステ荘」「ヴィラマダマ」を取り上げましたが、当然これ以外にも多数の名園が存在します。しかし、まとまった資料を入手することが困難なものが多いため、これ以降は主要なものをアラカルト(お好み料理)的に紹介しておきます。

*「ヴィラディスカステッロ」

「ヴィラディスカステッロ」はフィレンツェにあり、庭園は別荘とモンテ・モレロの丘の間にある丘陵地に作られています。「ニコロ・トリボロ」と言う人物の設計によるもので、特に植栽にこだわった点が一つの特色となっています。また、オレンジの木を大量に使った上部の庭・イトスギのトンネルがある下部の庭の2段構成となっており、一連の噴水で連結。その中心軸は丘の麓まで伸びています。

ヴィラディスカステッロ

 

 

 

 

「ヴィラディスカステッロ」の庭園内にあるヘラクレスとアンタイオスの噴水

 

ヴィラディスカステッロ・プラン

 

 

 

 

「ヴィラディスカステッロ」の全体プラン

 

*「ヴィラデステ」

「ヴィラデステ」はチボリにあり、ルネッサンス様式の作品としては最も壮大で保存状態の良いもの。イッポリト2世デステ枢機卿の依頼により作られたもので、ラテゥウムの平地を見下ろす丘の中腹を活用し建物と庭園が作られています。特に噴水施設が見事で、質・スケールともに超一流の作品となっています。

ヴィラデステ

 

 

 

 

 

「ヴィラデステ」のネプチューン噴水

 

ヴィラデステ・路地

 

 

 

 

 

「ヴィラデステ」の100の噴水路地

 

 

*「サクロ・ボスコ」

この作品(サクロ・ボスコ)は「マニエリスム」と呼ばれる絵画スタイルを取り入れたもので、ルネッサンススタイルとはかなり異なった特色ある庭。当時(1500年代後半)の同系庭園ではかなり贅沢な作品で、依頼者は「ピア・フランチェスコ・オルシーニ」と言う人物で、ヴォルマルツォと呼ばれる村にあります。庭の碑文には「偉大な旅人(貴方)が見た、恐ろしい顔・象・ライオン・鬼・ドラゴンがここに来た」と書かれています。

サクロ・ボスコ

 

 

 

 

 

「サクロ・ボスコ」の「地獄の鬼の口」

 

 

*「パドヴァの植物園」

ルネッサンス時代は<体系的な植物学が確立された時代>でもありました。その先陣を切ったのが「パドヴァ大学」で、世界発の植物園「パドヴァオルト」も創設。当然の事ながらそこには世界中の植物を集めた庭もありました。

パドヴァの植物園

 

 

 

 

 

パドヴァの植物園(アントニオ聖堂の現代彫刻から)

 

 

みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,040

「世界のガーデン」第六章:「露壇式庭園」とその代表作品

 

第22回:「エステ荘」と「ヴィラマダマ」

 

前回は「メディチ家の庭」と「ランテ荘」を紹介しましたが、勿論この他にも多くの「ヴィラ」(別荘)などがあり、「露壇式庭園」もイタリア中心に各所に造られました。しかし、資料が乏しい・「ヴィラ」や宮殿などの建物だけで庭園は無かったもの・当時は存在したが建物だけが残り庭園は保存されていないもの・・・などの事情で、紹介できる作品はかなり限られます。ただし、断片的であっても確認可能な現存「露壇式庭園」に関しては、出来るだけ取り上げていきます。この第22回は「エステ荘」と「ヴィラマダマ」をピックアップ。

「エステ荘」は前回紹介した「ランテ荘」と共に、最も有名な現存する「露壇式庭園」です。ローマの東約30㎞の位置にある街ティヴォリの丘陵地に造られたエステ家の別荘で、敷地は4.5ヘクタールに及ぶ広大なもので、特に噴水の見事さはイタリア随一との評価を持っています。

「エステ荘」の庭園は、オルガンを模した噴水・その他多くの噴水・子宝の神アルテミスを表したエリアなどが特に有名で、作曲家「フランツ・リスト」のピアノ曲のモデルになったとも伝えられています。

少しその歴史を追ってみると、元はベネティクト会の修道院をエステ家の一員であり枢機卿でもあった「イッポーリット2世」と言う人物が1,563年頃から大改装を始めたのがスタートとされています。ただ、改装はその後延々と続き、彼は1,573年に死去しますが、まだ完成には至っていなかったとの事。設計は「ピーロ・イーゴリット」(1,500〜1,583年)で彼は考古学にも精通しており、古代ローマ時代のデザインなども取り入れられた可能性があります。

その後、所有者が代わるなどの変遷を経ますが、大規模改修が繰返し行われ、1,600年代後半になっても進化し続けました。ただ、18世紀には「エステ荘」は放棄されてしまい、1,920〜1,930年の修復、1,941年(第二次世界大戦)の爆撃による破損などの苦難を超えた、イタリア史の象徴的建造物とも言えます。また、「ランテ荘」は自然の地形を活かしたのに対し、「エステ荘」は大掛かりな土木工事が行われ地形そのものにも手を加えられたとされています。

エステ所在地

 

 

 

 

 

 

「エステ荘」の所在地

 

エステ全景

 

 

 

 

 

「エステ荘」とその周辺の景観

 

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オルガン型の噴水

 

「ヴィラマダマ」はローマを見下ろすモンテマリオの斜面に造られた「ヴィラ」。1,516年から建造が始まり、レオ10世からジュリオ・デ・メディチ枢機卿へとバトンタッチされようやく完成に至ったと伝えられています。また、全体監修に関しては当時最も著名な芸術家であった「ラファエロ」が担当したとの事。従って、ルネサンス時代を代表する建造物であったことは間違いありません。ただ、庭園部分の資料が乏しく、入手できる画像も限られています。

ヴィラマダマ

 

 

 

 

 

「ヴィラマダマ」の全景

 

みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,039

「世界のガーデン」第六章:「露壇式庭園」とその代表作品

 

第21回:「メディチ家の庭」と「ランテ荘」

 

「露壇式庭園」の登場はルネッサンスの頃からで、表現を変えれば同時代初期の庭を探れば当初の姿を知ることが出来ます。そして、ルネッサンス時代を代表する富裕者と言えば何と言っても「メディチ家」で、庭園もまた同家のものが元祖的存在。勿論、スケールもまた別格でした。ただし、その庭は現存せず、図画等により往時の姿を知るのみです。

同庭園は創始者:コジモ・デ・メディチの息子ジョヴァンニ・デ・メヂィチ(1421〜1463年)によってヴィラ(別荘)に付随する庭として築かれました。建設・作庭期間は1455〜1461年の約6年間とされています。ただし、他の農地に付随した平地のヴィラと異なり、フィレンツェの景色が一望出来る丘の中腹に造られました。<主要な別荘には素晴らしい眺望が必要>とする「アルベルティ」(前項・第20回参照)の庭園論を参考にしたためで、スケールの大きな庭園でありながら高台にありかつ傾斜を有効活用した設計になっていました。<元祖「露壇式庭園」>と言われる所以がそこにあります。なお、メヂィチ家の庭園プランに関しては第20回に掲載した画像を参照して下さい。

現存する「露壇式庭園」あるいはヴィラとしてもっとも著名なものの一つに「ランテ荘」があります。

「ランテ荘(ヴィラ)」はローマの北約90キロの位置にある都市・ヴィルテボの郊外にあり、ゼロからではなく廃墟となっていた建造物を活用し造られました。ヴィラと呼ばれる建造物は、元貴族が所有する狩りのための小屋を改装したものが多く、「ランテ荘」の場合も教会に所属した司教たちが狩りをするとき、雨宿り用として利用していた建物を活用。ただし、大改装を行いイタリアを代表するヴィラ・庭園として大変身を遂げました。

大改装の依頼者は、当時このエリアを統治していた枢機卿「ガンバーラ」で、建造期間は1560年代後半からで20年の歳月を要したとされています。設計者は「ヴィニョーラ」と言う人物で、彼は当時もっとも著名な建築・庭園設計家の一人でした。このような経緯と現存する「ランテ荘」を観ると、この頃教会と言うものが極めて大きな権力を持ち、かつ財を成していたかが分かります。同時に、ルネッサンス時代に富裕層がヴィラ(及びその庭園)を重要視し、そこでの暮らしにどれだけ憧れたかが推測できます。

「ランテ荘」は「露壇式庭園」と2棟の建造物で構成され、その特色としては、自然の地形を有効活用している(他のヴィラは地形自体に手を加えたものが多い)・植栽は樹木のみ(草花を使わない)・トピアリー(幾何学的な刈込を施した植栽)の多用・・・などを上げることが出来、現在もほぼその全てが保存されています。

このような環境下で生まれた「露壇式庭園」は、極めて高度作庭技術により創出されたものであるかが分かります。また、幾何学系の庭園で「ペルシャ式庭園」の影響を色濃く受け継ぎ、かつフランスで生まれた「平面幾何学式庭園」などに引き継がれて行きます。

21:ランテ景観

 

 

 

 

 

「ランテ荘」とその周辺の景観

 

21:ランテ荘

 

 

 

 

 

「ランテ荘」の全景

 

21:ランテ主要部

 

 

 

 

 

「ランテ荘」の主要部

 

21:ランテ・ペガサス噴水

 

 

 

 

 

 

ペガサス噴水

 

 

みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,038

「世界のガーデン」第六章:「露壇式庭園」とその代表作品

 

第20回:「露壇式庭園」の特性

 

今回からは、中世以降は世界を牽引してきたと言っても過言ではない、ヨーロッパの庭園について検証します。

ヨーロッパの庭園は3つの様式に分類することが出来ます。イタリアで生まれた「テラス式庭園 or 露壇式庭園」、フランスから広がった「平面幾何学式庭園」、イギリスを故郷とする「風景式庭園」。以上です。そして、この中で発祥が一番古いのが「テラス式 or 露壇式庭園」であるため、最初にこのタイプの庭園から分析を試みます。

前述したように「テラス式 or 露壇式庭園」はイタリアから生まれたもので「イタリア式庭園」とも呼ばれています。ただ、名称による混乱を避けるため今後は全て「露壇式庭園」と呼びます。そして、このタイプの庭園が誕生した背景として、1:「ペルシャ式庭園」の影響 2:ルネサンス時代の作家の美意識 3:イタリア及びその周辺の地形・・・の3要素を上げることが出来ます。

また前項(第19回)でも触れた通り、イタリアでは古代ローマ時代(BC753〜AD476年)にも庭園と呼ばれるものが存在しました。古いものでは紀元前後の遺跡もあります。おそらくその後もかなり優れた庭園が造り続けてきたと想定されますが、少なくとも一般人が目にすることが出来る明確な資料や、遺跡、再建された物件などはあまりなく、ここで取り上げようとしている「露壇式庭園」が登場するのは、ルネサンス時代から。従って14世紀以降の作品と言うことになります。つまり、古代ローマの滅亡後1,000年程後の事で、その直系の庭園ということではありません。

「露壇式庭園」は分類的には、幾何学式庭園に属し、前述のごとく「ペルシャ式庭園」の影響を強く受けています。ただし、乾燥地帯が大半を占める中東とイタリアでは環境・地形等が大きく異なり、またルネサンスという新しい文化・美意識も加わり、特有の優れた庭園を創出しました。同時に、以後のほぼ全ヨーロッパの庭園にも大きな影響を残しました。

技法としては、「ジャグディーノ・セグレト(隠れた庭)」「ベルベデーレ(景観)」「ボスコ(樹林)」「グロット(人工洞窟)」「噴水」「カスケード(階段状の滝)」「ビスタ(通景線)」「花壇や迷路(植栽)」「彫刻」などが重要視されました。これらの内容をつなげると「露壇式庭園」は、イタリアに多い丘など傾斜の多い地形を活かし、しかもテクニックを重視した庭であったことが分かります。また、超富裕層の別荘などにこのような庭園が多く作られたようで、権力の象徴・公共性と言った色彩が濃くなった後の庭園とは異なり、パーソナルなある意味自己満足的な楽しみ方が重要視された庭が多かったようです。

また、ルネサンスの巨人の一人ともいわれる「レオン・バツチスタ・アルベルティ」(1404〜1472年)は著名な庭園論を残しており、ここでも<環境の悪い都市を離れ、太陽と澄んだ空気に恵まれた郊外に別荘と庭園を造り過ごす>ことを推奨しています。彼のこのような庭園論は、以後に造られた「露壇式庭園」にも大きな影響を与えたことは想像に難くありません。

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「メディチ家」の庭園を描いた絵図(ジュストウテンス・1598年)

 

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「ジュネット・ユーテンス・オブ・ヴィラ・メディセア・ランブロギアーナ」の絵図(1598年)

 

みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,037

「世界のガーデン」第五章:ギリシャ・ローマ時代の庭園

 

第19回古代ローマの庭園事情

 

ヨーロッパ文明に多大な影響を与えた、古代ギリシャ・ローマの庭園事情について検証中。前項で示した通り、ギリシャではクレタ島の庭園らしき痕跡・神殿に付随した植栽・果樹園などの存在は確認されていますが、明確に庭園と呼べる資料・遺跡等はまだ発見されていません(ただし、富裕層の個人邸宅に庭園らしきものが存在した可能性は高い)。では、古代ローマでは・・・

結論から言うと、古代ローマ(BC753〜AD476年)では<明らかに庭園と言えるもの>が造られていました。また、鑑賞のための園芸も急発達したとの事。具体的には、紀元前の段階でピンチョと呼ばれる丘には「ルクルス庭園」と言うものが存在し、ヨーロッパ中に広く紹介されていたとの事。ただこの庭は「ペルシャ式庭園」であったようで、ローマ独自の様式はこの段階では確立されていなかった模様。

その後、庭園は平和と安らぎの象徴・都市生活の疲れをいやす場所・宗教儀礼と繋がる場所などとして、より重要視されるようになります。

以上でもわかる通り、ローマ庭園の原点は明らかに「ペルシャ式庭園」。これに古代ギリシャで発達した園芸・植栽技術、古代エジプトの富裕層が家を飾るために使ったガーデニングの技術などが加わり、少しずつ独自の庭へと進化していったと伝えられています。また、マケドニアの「アレキサンダー大王」(在位BC336〜BC323年)は、周知のとおり中東を経てインダス川のほとりまで勢力を伸ばしますが、その時に収集した植物や園芸技術もローマ庭園に大きな影響を与えたとされています。

また、古代のローマ庭園には公共スペース用と住宅用に大別され、公共スペース用は公園・遊園地・墓地などと一体化されたものが多く、まだ現代のような公共庭園的なスペースではなく、公共の場の一部に植栽・休憩所などが配され、それを庭園と称していたのではないでしょうか?

一方、住宅用に関しては建物・塀などで囲われたパティオ形式が主体で、単に中庭があり植物等が植えられていたと言うだけではなく、かなり全体構成を考えた庭園と呼ぶにふさわしいものが存在していたようです。

その痕跡が最も良く保存され現代に当時の状況を明確に伝えてくれるのが、火山噴火で姿を消したポンペイ。発掘調査で、庶民の住宅にはスペースが限られ庭らしきものは殆ど存在しませんでしたが、富裕層の邸宅では、前述のようなパティオ式の庭園が複数見つかっています。また、それを再現した<画家の住居の庭><「ヴェッティ邸」の庭>などで、当時の様子を知ることが出来ます。

また、「フィシュボーンローマ宮殿」内の博物館にも、考古学資料を基にした庭園が再現(模型)されており、当時の宮殿にセットされた庭園構成だけでなく、発掘資料によりどのような植物が植えられていたかも知ることが出来ます。

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画家の家の庭園(ポンペイ・再現)

 

 

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「ヴェッティ邸」の庭園(ポンペイ・再現)

 

 

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「フィシュボーンローマ宮殿」の博物館が当時の庭園を再現した模型

 

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