みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,078

「世界のガーデン」第八章:「風景式(イギリス式)庭園」

 

第61回:「ハイクレア・カールス」&「ウォリック城」

 

「風景式(イギリス式)庭園」の創始者とも言うべき「ランスロット・ブラウン」の作品を紹介中。このコーナーでは資料が少ない事もあり、イギリスの「ハイクレア・カールス」と「ウォリック城」を同時に取り上げます。

「ハイクレア・カールス」

「ハイクレア・カールス」はイングランド南岸の都市ハンプシャーにあるカントリーハウス(農村部に建てられた貴族の館)で、1,600年代に建てられました。なお、「ハイクレア」とは古くからある地名から来た名称。

現存する建物はビクトリア朝風で豪華な装飾が施されたおり、1,842年に改築されました。ただし、マンションとして造られたもので、今も夏の間だけ一般開放されています。また、5代目当主の「カーナヴォン伯爵」(1,866~1,923年)は、エジプトのファラオ「ツタンカーメン」墓地の資金提供者(「ツタンカーメン」墓はその資金を公募で賄ったとの事)としても有名で、当時の発掘品が今も展示されています。補足するなら、同建物には現在も8代目の「カーナヴォン伯爵」夫妻が居住しています。

庭園に関しては、前述のごとく「ランスロット・ブラウン」設計の「風景式庭園」ですが資料は殆どありません。興味ある方は自力で現地へ・・・

カントリーハウス

 

 

 

 

 

 

「ハイクレア・カールス」・・・ビクトリア朝調のマンション

 

庭園「ハイクレア・カールス」庭園①

 

庭園②

 

 

 

 

 

 

「ハイクレア・カールス」庭園②

 

レバノン杉

 

 

 

 

 

 

「ハイクレア・カールス」庭園③・・・レバノン杉が有名

 

第5代カーナーヴォン伯爵と夫人アルミナ (1921年)

 

 

 

 

 

 

 

 

5代目当主の「カーナヴォン伯爵」夫妻(1,921年撮影)

 

「ウォリック城」

「ウォリック城」はイングランド中部のウォリックシャー・ウォリックと言う場所にあります。中世から存在する古城で元は900年代前半に造られたアングロ・サクソン人の砦。当然軍需拠点として重要な場所であったため、1,068年に征服王と言われた「ウィリアムス」が、砦と同じ場所かその近辺に現在の元となる城を建造しました。また、1,600年代までは現役の城として活躍していたとの事。

ただし、持ち主・用途等に関してはかなりの変遷があり、1,088年には「ウォリック伯爵」が所有・1,153年には「アンジュリー伯アンリ」(後の「ヘンリー2世」)が接収し囚人の習慣に使った・・・など多くの記録が残されています。

時代は大きく下り、1,600年代になると庭園が築かれたと言う記録も残っています。当然、幾何学式の庭園であったと推定されますが、一般人が目にできるような資料は殆ど現存しません。また、1,700年代に「ランスロット・ブラウン」により現在に近い「風景式庭園」に大改修されたことは間違いありませんが、詳しいいきさつや現在の姿も、現地を訪れるなどしないと手に入る画像は限定的です。

ウォリック城

 

 

 

 

 

東側のエイヴォン川から見たウォリック城

 

聖メアリー教会から見たウォリック城

 

 

 

 

 

聖メアリー協会から見た城

 

みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,077

「世界のガーデン」第八章:「風景式(イギリス式)庭園」

 

第60回:「チャッツワース・ハウス」と庭園

 

今回から「風景式(イギリス式)庭園」の代表的なものを紹介して行きます。最初に取り上げるのは、本場イギリスにあり、「風景式庭園」作庭の先駆者「ランスロット・ブラウン」(1,715~1,783年)の代表作でもある「チャッツワース・ハウス」とその庭。とは言っても「チャッツワース・ハウス」の歴史は古く最初の建物が完成したのは1,560年代との事。逆に言えば、「風景式庭園」がセットされたのはかなり後だと言う事になります。

この建造物は「カントリー・ハウス」(イングランドの農村部に建てられた貴族の住居)と呼ばれたもので、スコットランド女王「メアリー」が諸事情あり軟禁されていた事でも良く知られています。ただし、現在の建物は初代デヴォンシャー公「ウィリアム・キャヴェンディッシュ」(1,640~1,707年)時代に造り替えられたもの。また、1,686~1,707年、それに1,820年代にも大規模な増改築が行われています。

また、1,872年には明治初期にアメリカ・ヨーロッパを歴訪した「岩倉使節団」も訪れ<その壮麗さに驚かされた>と言った記録も残っています。

「チャッツワース・ハウス」の庭園は、第4代デヴォンシャー公「ウィリアム・キャヴェンディッシュ」(1,720~1,764年)時代に根本的に造り替えられ「風景式庭園」となったもので、設計者は既に提示した通り「ランスロット・ブラウン」。逆に言えば、1,700年代中頃以前は幾何学式の庭園がセットされていたと言う事ですが、その概要については少なくとも一般人が目にすることが出来るような資料は殆ど無く不明。

現庭園はダーウェント川沿いにあり、長さ14キロメートル・42ヘクタールの規模さがあり、その全てが石塀とフェンスで囲まれています。ただし、1,800年代にも庭園にかなり手が加えられており、この時の改修を担当したのが1,851年のロンドン万博の「水晶宮」・イギリス最初の公園等を設計した人物として知られる「ジョセフ・パクストン」(造園・建築家 1,803~1,865年)でした。「ランスロット・ブラウン」「ジョセフ・パクストン」と言う顔ぶれだけを見ても「チャッツワース・ハウス」庭園がいかに重要な位置づけにあるか一目瞭然でしょう。

現在の「チャッツワース・ハウス」及びその庭園は「チャッツワース・ハウス・トラスト」と言う組織が管理しており、庭全体の散策・建物内部(30もの豪華な部屋、等)の見学・絵画や彫像コレクションの鑑賞などが出来、人気の観光スポットとなっています。

また、映画「プライドと偏見」(2,005年)・「侯爵夫人」(2,008年)などのロケ現場にもなっています。

 

庭園の巨大カスケードを上方より見える

 

 

 

 

 

 

 

庭園:巨大な人工滝を上方より観る

 

城と橋

 

 

 

 

 

 

建物と橋

 

ダイニングルーム

 

 

 

 

 

 

ダイニングルーム

 

正面階段

 

 

 

 

 

 

 

正面階段

 

 

彫像ギャラリー

 

 

 

 

 

ギャラリー

 

スコットランド女王・メアリー

 

 

 

 

 

 

 

スコットランド女王「メアリー」:一時期「チャッツワース・ハウス」に軟禁されていた

 

4代デヴォンシャー公

 

 

 

 

 

 

 

第4代デヴォンシャー公「ウィリアム・キャヴェンディッシュ」

 

 

ジョセフ・パクストン

 

 

 

 

 

 

 

「ジョセフ・パクストン」

 

 

みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,076

「世界のガーデン」第八章:「風景式(イギリス式)庭園」

 

第59回:「風景式庭園」とは?②

 

「風景式(イギリス式)庭園」(以後は「風景式庭園」と表示)について検証中。とは言っても、前項では同庭園が登場するに至るヨーロッパ庭園の経過(歴史)を再確認する作業が大半を占めました。そこで、本稿からは、本来の目的である「風景式庭園」とは何かについて多角的な分析を試みたいと思います。

まず、「風景式庭園」の定義ですが、既に提示(前項)の通り「自然の景観を尊重した広大な庭園」と言ったところ。でもなぜ「広大な庭園」でなければならないのでしょうか? 小さな庭園は「風景式庭園」に含まれないのでしょうか? 実はこの答えはかなり微妙。狭義の解釈では、小さな庭園は「風景式庭園」に含まれないと言う事になりますが、広義の解釈では含まれると言う事になるからです。

では、狭義と広義の相違とは。ヨーロッパの王族・貴族などが創った歴史的庭園に限定すれば狭義の解釈、デザイン的特性だけを考えれば広義の解釈となると言う事。従って、後者を対象とすると具体的に「風景式庭園」を紹介する時、現代の公園や個人庭園まで含めなければならなくなります。従って、本稿では<狭義の定義づけ>を採用することにします。

では、「風景式庭園」はいつ頃登場し、誰がその先駆者となったのでしょうか?

まず登場年代ですが、1,730年以降とするのが一般的。そして、「風景式庭園」作庭の先駆者となったのは「ウィリアム・ケント」(1,685~1,748年)と「ランスロット・ブラウン」(1,715~1,783年)の2名だと言うのが定説となっています。

「ウィリアム・ケント」は建築家であり作庭家でもありましたが、どちらかと言うと後者のイメージが強く、その代表作に「ホウカル・ホール」があります。同建造物はイングランド中東部のノーフォーク行政区のホウカルと言う街にあり、パッラーディオ建築(ルネサンス風建造物の一流派)の代表作とされています。一方庭園は、丘(最高部)にオベリスクが設置され、そこから1.6㎞に及ぶ並木道が通され凱旋門まで続いていました。そして、少しずつ拡張され1,770年頃のピーク時にその面積は6.1㎢に達したとの事。ただし、凱旋門付しか現存しません。従って、「ホウカル・ホール」は代表的「風景式庭園」の中に含まれていません。

「ランスロット・ブラウン」に関しては、「ブレナム宮殿」「チャッツワース・ハウス」「ハイクレア・カールス」「ウォーリック城」など多くの作品を残し、「風景式庭園」の父とも言える存在。ある意味、「風景式庭園」における、「平面幾何学式(フランス式)庭園」の創始者「アンドレ・ル・ノートル」のような存在とも言えます。

従って、後項で多くの作品を取り上げる事になり、その過程で人物像に迫りたいと思います。

 

ウィリアム・ケント

 

 

 

 

 

 

 

「風景式庭園」創始者の一人「ウィリアム・ケント」(1,685~1,748年)

 

 

ホウカム・ホール

 

 

「ウィリアム・ケント」の代表作「ホウカル・ホール」の南側ファサード

 

 

凱旋門

 

 

 

 

「ホウカル・ホール」の「凱旋門」付近(庭園はこの付近だけしか現存しない)

 

 

ランスロット・ブラウン

 

 

 

 

 

 

「ランスロット・ブラウン」・・・「風景式庭園」の創始者的存在であり代表作庭家でもある

 

 

 

みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,075

「世界のガーデン」第八章:「風景式(イギリス式)庭園」

 

第58回:「風景式(イギリス式)庭園」とは?①

 

長期にわたり「平面幾何学式(フランス式)庭園」について検証してきました。今回からは、ある意味その対極とも言える「風景式(イギリス式)庭園」を取り上げます。まずは、ヨーロッパ庭園史の概略と「風景式庭園」登場の経緯から・・・

ヨーロッパの庭園は、中東(ペルシャ)にそのルーツがあると言えます。従って、幾何学構成が基本となっていました。中東の場合殆どが砂漠地帯で、それを人工的に加工する事が庭造りであったからです。もう少し具体的に言うと、砂漠の中の一区画に建物を建て、その周辺を塀などで囲い、囲われた内部を計画的(幾何学的)に割付け、その中に水を引き込み、植栽を施す・・・と言う事。極端な言い方をすれば、<自然にチャレンジし異空間を生み出す>事こそ庭造りであったと言う事。

ヨーロッパにもその発想が持ち込まれ、14世紀頃にイタリアでルネサンス(ある種の復古主義)が始まる頃になると、王族・貴族の館で大規模な庭園が造られるようになります。ただ、傾斜地が多いと言うイタリアの地形の特性とギリシャ・ローマ以来の芸術性が持ち込まれ、特有の「露壇式(イタリア式)庭園」が生まれます。ただし、(傾斜を活用すること以外)自然を作り変える事が庭造りだと言う発想は中東と同じで、<庭園=幾何学的構成>と言う基本に変化はありませんでした。

少し時代が下り、ルイ14世の時代、つまり17世紀になるとブルボン王朝に代表されるような、より巨大な権力を持つ王・貴族が現れ、それを見せつけるかのような超大スケールの建造物と庭園が、フランスを中心に造られるようになります。そう、「平面幾何学式(フランス式)庭園」の登場です。フランスは平地が多くそれを活用したため、庭園面積は「露壇式庭園」に比較しはるかに大きくなり、装飾面でもややシンプルとなったものの、自然観とは対極にある<庭園=幾何学構成>と言う基本発想は中東由来のものと同じでした。

しかし中東エリアとは異なり、ヨーロッパには緑り豊かな自然がありました。18世紀になるとそれをもっと活かすべきだと主張する者がイギリスに現れ、<庭園=幾何学構成>と言う考え方を根本的に覆す動きが出てきます。「風景式(イギリス式)庭園」の登場です。つまり、この段階においてようやく中東(ペルシャ)以来の発想から脱した庭園が登場する事になった訳で、画期的変化と言えます。

両者は水と油のよううで「風景式庭園」登場当初は対立関係にありました。だが、時と共に部分的に使い分けるようになるなど、同化の動きも見られるようになります。

上記を参考に、「風景式(イギリス式)庭園」を定義づけると、狭義の解釈では「自然の景観を尊重した広大な庭園」とするのが一般的。なぜ<広大>と言う一言が加わるかと言うと、同庭園もイギリスの王・貴族など権力者の城・宮殿などにセットされ、さらに自然観をより多く取り入れようとすれば広大な敷地が必要となったからです。勿論、イギリスと言う国の地形がそれを可能にしたと言う点も見逃せません。

では、より具体的に誰が「風景式庭園」を創出し、どのような変遷を遂げたのでしょうか?

タージマハル

 

 

 

 

「タージマハル」(インド)・・・最も美しいペルシャ式庭園の一つ

 

ランテ荘庭園

 

 

「ランテ庭園」(イタリア)・・・「露壇式庭園」の代表的存在

 

ベルサイユ

 

 

 

 

 

ベルサイユ宮殿(フランス)・・・ここから「平面幾何学式庭園」の歴史が!

 

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「ストウ庭園」(イギリス)・・・代表的「風景式庭園」の一つ

 

 

 

 

 

クロード・ロランの絵は風景式庭園に影響を与えた

 

 

 

 

 

「クロード・ロラン」画・・・この絵画が「風景式庭園」に影響を与えたとされる

 

 

みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,074

「世界のガーデン」第七章:「平面幾何学式(フランス式)庭園」

 

第57回:伊国の「ガゼルタ宮殿」&庭園

 

今回が「平面幾何学式(フランス式)庭園」の最終回。登場するのはイタリアの「ガゼルタ宮殿」とその庭園。そして、トリ(最後)にふさわしい作品でもあります。

「ガゼルタ宮殿」はその名が示す通り、イタリアのカンパニア州(地図参照)の都市「ガゼルタ」(カンパニア州の北西部・人口8万人弱)にあります。

少し歴史を辿ると、ブルボン王朝系で13~18世紀まで続いた「ナポリ王国」終盤の王「カルロス7世」(在位1,735~1,759年)により建造されました。ただし、彼はスペイン王(カルロス3世・在位1,716~1,788年)兼務、と言うより<スペイン王時代の一定時期に「ナポリ国王」を兼ねていた>と言うべきで、<スペイン王「カルロス3世」により造られた>と記された資料も少なくありません。

いずれにせよ、「ガゼルタ宮殿」は1,752年に建設工事がスタートし、完成したのは三男の「フェルナンド4世」(在位1,751~1,825年)の治世になってからとされており、少なくとも完成までに20年近くの歳月を要しています。それだけ巨大な宮殿で<18世紀のヨーロッパ最大の建造物>とも称されています。

また、「ナポリ王国」は前述のようにブルボン王朝の流れを汲む国で、ある意味当然の事ながら「ベルサイユ宮殿」をモデルにしたと伝えられています。従って、バロック風のどっしりとした建物となっており、私邸とも言える宮殿と公邸とも言える官公庁がその中にセットで入っており、宮殿建設の動機自体も<王国支配のための壮麗な首都建設>で、文字通り「ナポリ国」統治のための最大拠点でもありました。

また、スケールの大きさだけではなく、同宮殿内には巨大な図書館・劇場なども作られ、さらには中央の八角形の玄関・階段等はヨーロッパ屈指のデザイン・技術・文化が集約されたものとして高く評価されています。

宮殿全体は、247×184mの長方形。その四方は2つの直角に伸びた腕のような建物で繋がれ、それらに囲まれた各々3,800㎡以上の中庭が4つ作られています。その様式・スケールは再記するまでもなく「ベルサイユ宮殿」を強く意識したものです。

庭園も<最大級の「平面幾何学式」の一つ>とされていますが、それもまた納得・・・

庭は現在は公園として開放されています。その様式はバロックを意識した巨大な「平面幾何学式(フランス式)庭園」で、面積は120ヘクタールに及びます。しかも、「ベルサイユ宮殿」は平地に作られましたが、「ガゼルタ宮殿」の庭は丘陵地で傾斜を有効活用しています。従って、<その美しさはベルサイユ以上>と言った評価も!

メインの庭園は宮殿の後方ファサードからスタートした左右対称と言う基本構成。その中に、巨大な水路・池・噴水・通路などが配され、特に著名芸術家による彫刻で有名な「ティアナとアクタイオンの噴水」、1,770~1,780年作とされる「アフロディアとアドニスの噴水」、1,773~1,780年作とされる「イルカの噴水」、それに「アイオロスの噴水」「セレスの噴水」(以上の噴水の殆どはギリシャ神話にちなんだもの)など見どころの多い、世界屈指の水の庭園でもあります。

最も、現在の庭園は「風景式(イギリス式)庭園」なども追加され、世界中の人々に愛される屈指の欧風庭園と言った方が適切化も・・・

庭園と宮殿

 

 

 

 

 

 

 

 

全景・・・メイン庭園は丘陵地に造られ、「ベルサイユ宮殿」に匹敵するスケールと、それを超える美しさがあると言う評価も!

 

人工滝&アクタイオン像

 

 

 

 

 

 

 

人工の滝とアクタイオン像

 

宮殿内の階段

 

 

 

 

 

 

 

 

宮殿入り口付近の階段

 

 

カルロス3世

 

 

 

 

 

 

 

 

宮殿の造営者ナポリ国王「カルロス7世」・・・スペイン王「カルロス3世」と同一人物

 

 

カンパニア州

 

 

 

 

 

 

 

 

カンパニア州の位置

 

 

カンパニア州の紋章

 

 

 

 

 

 

 

 

カンパニア州の紋章

 

 

ナポリ王国の国章

 

 

 

 

 

 

 

 

「ナポリ王国」の紋章

 

 

 

「平面幾何学式(フランス式)庭園」コーナーの最後に・・・

前述のごとく。本稿を持って「平面幾何学式(フランス式)庭園」の紹介を終えます。出来るだけ漏れがないように取り上げたつもりですが、それでも資料不足で紹介不可能な作品も多数あります。従って、最後に一定の知名度がありながら取り上げることが出来なかった作品を列記しておきます。

「シェライスハイム城」と庭園(ドイツ)

「ビルニツ宮殿」と庭園(ドイツ)

「ファヴォリーテ宮殿」と庭園(ドイツ)

「シェロスホーフ城」と庭園(オーストリア)

「ヘット・ロー宮殿」と庭園(オランダ)

「ハームステッド宮殿」と庭園(オランダ)

「バドミントン宮殿」と庭園(イギリス)

「ペテルゴフ宮殿」と庭園(ロシア)

「オスタンキーノ宮殿」と庭園(ロシア)

「ケルス宮殿」と庭園(ポルトガル・写真参照)

「ドロットニングホルム宮殿」と庭園(スウェーデン・写真参照)

等々

ケルス宮殿

 

 

 

 

 

 

「ケルス宮殿」

 

ドロットニングホルム宮殿

 

 

 

 

 

 

「ドロットニングホルム宮殿」

 

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