りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO1,633

 

「世界のガーデン、日本のガーデン 編」・・・「東山文化」と「日本庭園」の進化!

「北山文化」の出現と室町時代の「日本庭園」について検証しています。そして庭園自体も爛熟期を迎えたことが分かりました。しかし、その、室町幕府は勢力を次第に低下させていきます。応仁の乱(1467~1477年、将軍・足利義政の世継争いに端を発し、細川勝元×山名宗全らが起こした10年戦争)、守護大名の台頭、などにより幕府の統制次第に取れなくなって行ったからです。そして、各地方でさらなる下克上が興り、戦国時代へと突入していきます。

ただ、その間にも京都を中心に、文化面ではさらなる進化が起こります。「臨済宗」の影響~水墨画・能・庭園など新芸術の台頭~茶道の定着と言った進化です。そして、この進化の情報発信元となったのが「東山文化」で、その中心が「銀閣寺」です。

「東山文化」とは室町時代中期の文化を指す言葉です。八代将軍足利義政(1436~1490年)が築いた京都の東山山荘を中心に、武家、公家、禅僧らがその知識を融合させ創出したと言われています。そして東山山荘の最大拠点が「銀閣寺」で、そこをベースに「東山文化」が、守護大名等にまで広がっていきました。従って「東山文化」の特色としては、能、茶道、華道、庭園、建築、連歌、など新芸術の出現と、その文化の対象エリア・階層の広がりを上げることができます。

ここでは、その「東山文化」の象徴的庭園2つをピックアップしておきます。「銀閣寺」「竜安寺」です。

「銀閣寺」は正式名を「慈照寺(じしょうじ)」と言い、臨済宗相国寺派の寺院で、京都市左京区にあります。本尊は釈迦如来像。開基は足利義政で、開山はあの「夢窓疎石」です。従って、その庭園が優れたものであることは言うまでもありません。「銀閣」とは同寺の観音堂のことで、1489年の上棟ということが分かっています。ただし、「金閣寺」と異なり銀箔が貼られているわけではありません(黒漆塗り)。なお現在の「銀閣」は2008~2010年に大規模修復が行われたもの。

「銀閣」と共に、書院造り・茶室の原型とも言われる「東求堂(とうぐどう、国宝)」、「庭園」が特に有名で、その庭は「西芳寺」を模して造られたとも。池泉回遊式で、「銀紗灘」「向月台」と言った砂盛りも有名です。

「竜安寺(りょうあんじ)」は細川勝元開基・義天玄承開山の、臨済宗妙心寺派の寺院。京都市左京区にあり世界遺産にも指定されています。石庭が特に有名。この石庭とは塀で囲まれた方丈の「枯山水」庭園のことで、「日本庭園」の極致とも言われています。ただ、それだけに「虎の子渡し」など様々な解釈や謎も・・・ また、「竜安寺」の庭園はこれだけではなく、寺の南側に鏡容池を中心とした「池泉回遊式庭園」があります。

そこで本日のひとくちアドバイス。

「文化をより進化させ、エリア・対象層を広げる基となった・・・それが東山文化!」

(りょう)

 

 

 

 

 

「銀閣寺」:東求堂と庭園

 

 

 

 

 

 

「竜安寺」:石庭

 

 

 

 

 

 

「竜安寺」:鏡容池

K様邸の「例のカーポート」

先日の K様邸カーポート 「四国化成 マイポートNEO Y合掌タイプ」が 完成間近です。

柱だけだったときは 「?」となにが できるの??

という感じでしたが 梁が付くと カーポートらしくなってきました。

相変わらず 取り付けかたが わかりづらい らしく 

説明書と にらめっこして

四苦八苦 (五苦十苦??)しているようですが

(・・・四国化成さん もう少し 施工者側の気持ちになって

施工図面書いてください!!)

「マイポートNEO Y合掌タイプ」 取り付けたかたもいらっしゃるかもしれませんが

こんなに たいへんでしたか?

かたちは かっこいいんだけどなぁ・・・

りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO1,632

 

「世界のガーデン、日本のガーデン 編」・・・室町時代の庭園様式とその意味!

「室町時代」には「夢窓疎石」と言う庭園界のスーパースターの出現もあり、多くの名園が造られました。同時に「日本庭園」特有の様式もこの時代にほぼ確立されたと言って良いでしょう。では、それ以前の庭園様式と室町以後の庭園様式にはどのような差があるのでしょうか?

鎌倉時代以前の「日本庭園」は、「寝殿造」に伴う庭園、「浄土式庭園」の2種にほぼ限定されます。そして、様式的に言えば両者とも「池泉回遊式庭園」と言うことに成ります。より重要なことは、「寝殿造」系は自然の風景を模したもの、「浄土式」系は阿弥陀如来の世界を模したものであると言うこと。つまり、何かのモデルを庭園の中に形として凝縮したわけです。

「寝殿造」系の庭園は、全ての「日本庭園」の基とも言えます。そして、平清盛の時代(平安末期)には厳島神社が隆盛を極めた影響のあり、瀬戸内海の風景画が模写されるなど、さらなるデザイン的発展を遂げます。一方、「浄土式」系の庭園は、空想の世界が対象となるため、インドの「スメール山(須弥山)」、中国の「蓬莱山(神仙思想の中の空想の山)」がデザインモデルとなります。ただ、いずれも人間の深層世界に踏み込んだものではありません。

「室町時代」になると、「池泉回遊式庭園」の発展形、「池泉座視式庭園」「枯山水」などの、当時としては新しく、かつ「日本庭園」の基本ベースとなる様式がほぼ出揃います。ただし、これは単に新しい庭園デザインが出現したと言うだけに留まるものではありません。そこには「臨済宗」(あるいは臨済禅)の影響で人間の精神世界を庭園内に表現すると言う、決定的な進化が加わっています。

ヨーロッパの絵画に例えるならが、自然界・キリスト教の世界を写実的に描いていた段階から、印象派の出現で精神世界の表現へと踏み込み、さらに抽象画の世界でさらなる追求が行われるようになった。そのような変化とよく似ています。そして、庭園という世界で人の精神表現へと深く踏み込んだのは「日本庭園」だけです。その橋渡しを行った代表的人物が「夢窓疎石」と言うことに成るでしょう。それが可能であったのは、彼が極めてレベルの高い禅宗の僧侶であったからでしょう。

「日本庭園」の各様式の特徴、技法については別項で詳しく述べます。しかし、自然界・宗教界の模写から人間の精神世界、さらには深層心理へ踏み込もうとしたのは「日本庭園」だけであること。この決定的変化が「室町時代」におきたこと。この点を見逃して、我が国の名庭を語ることは出来ません。また、どの程度それが論理的に理解されているかは不明ですが、「日本庭園」がクロード・モネを、そして世界の人々を感動させ続けるのは、その精神世界が何かを語りかけているからでしょう。

そこで本日のひと口アドバイス。

「自然界・宗教界の模写~高度な精神世界を追求すると言う決定的変化が・・・」

(りょう)

 

 

 

 

 

「スメール山」:古代インド人のイメージ

 

 

 

 

 

 

 

「銀閣寺」:池泉回遊式庭園

 

 

 

 

 

「智積院」:池泉座視式庭園

 

 

 

 

 

 

「太山寺」:枯池式枯山水庭園

2区画!!

「今から 家の工事が始まるのですが・・・」と

ハウスメーカーさんで おうちを建てられるという

I様ご夫婦が 来店してくださり

「外構は ハウスメーカーさんより こちらに

ご相談させていただいたほうがいいかと」 思ってくださったとのことでした。

ご希望を いろいろ 伺わせていただき

ご提案プランを 作成しています。

「2区画 買った」という 現場を 現調にいきました。

まわりに 大きな建物もなく 陽当たりのいい場所で

広いお庭の大きなおうちが 完成するのが

楽しみですね。

ご自宅の完成は 来春とのことですので

ゆっくり ご検討していただいて 是非 お庭作りに

関わらせていただきたく思います。

よろしくお願いいたします。

りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO1,631

 

「世界のガーデン、日本のガーデン 編」・・・「夢窓疎石」の庭園って何だ?

「室町時代」に「日本庭園」は爛熟期を迎えたと述べました。その重要ポイントの1つが「夢窓疎石」の存在です。そこでこの項では、彼が作庭した庭園を紹介し、それをベースに彼の考え方、当時に「日本庭園」の状況に迫ってみたいと思います。

「夢窓疎石」は日本の歴史上最も著名な庭園家ですが、元来は「臨済宗」の僧侶です。南北朝期~室町時代にかけて活躍し、1351年に76歳で没しました。その間、西芳寺庭園(京都市西京区、世界遺産)、天竜寺庭園(京都市右京区、世界遺産)、永保寺庭園(岐阜県多治見市、国の名勝)、瑞泉寺庭園(神奈川県鎌倉市、国の名勝)、恵林寺庭園(山梨県甲府市、国の名勝)、覚林房庭園(山梨県身延町、町指定文化材)など多くの名園を残しています。

また、彼は多くの名前を持つ人物としても有名で、天皇から与えられた国師号だけでも7つあり、七朝廷師とも呼ばれています。その中でも「夢窓国師の名が特に良く知られ、この名前の方が通りがよいかも知れません。そしてここでは、「夢窓疎石」の2つの作品を取り上げます。「西芳寺庭園」「永保寺庭園」です。

「西芳寺」「苔寺」とも通称され特に庭が有名なお寺です。寺暦は非常に古く、開山は奈良時代の偉僧行基(それ以前は聖徳太子の別荘であったとも)で本尊は阿弥陀如来。ただ、中興の開山者が「夢窓疎石」で、現在の姿はそれ以後のものと解釈すべきでしょう。当然、夢窓以後は「臨済宗」の寺院となっています。

「西芳寺」の庭園は、上段の枯山水と、下段の池泉回遊式、と言う2つの部分から成り立っています。特に、境内北側の枯山水の石組は「夢窓疎石」当時のものが残っていると言われており貴重な存在です。回遊式部分では苔が敷き詰められ、黄金池とのバランスが絶妙で、「苔寺」の名前もそこから来ています。また、禅の精神との融合、山にある禅堂からの展望、借景との調和など、庭園として優れた要素を多数持つ、「室町時代」の代表的庭園であることは言うまでもありません。

「永保寺」は臨済宗南禅寺派の寺院で、「夢窓疎石」がこの地を訪れた時、岩山の上に観音菩薩像が出現し、それを切っ掛けに1314年に観音堂を建立したと言われているなど、伝説の多いお寺です。その観音堂(名称:水月場)は国宝にも指定され、同寺の庭園もまた高い評価を受けています。中国庭園様式を思わせる庭で、「虎渓山」とも呼ばれています。ただ「夢窓疎石」に訪中経験は無く、あくまで彼の想像の世界として演出されたものでしょう。

このように、「夢窓疎石」の庭園は、周辺条件により大きな異なりがあります。自然との調和を大切にしたからでしょうか。ただし、それは自然の模写ではなく、精神世界と現実世界と言う2つの要素から成り立っています。そこに室町時代に確立された庭園様式とは何かを解き明かす、キーワードが隠されているともいえるでしょう。

そこで本日のひと口アドバイス。

「周辺条件をたくみに活用した夢窓! ただし、精神・現実と言う2つの世界で庭園構成!」

(りょう)

 

 

 

 

「西芳寺」の庭園(回遊式部分)

 

 

 

 

 

 

「西芳寺」(茶室「湘南亭」)

 

 

 

 

 

 

「永保寺」(庭園全景)

 

 

 

 

 

「永保寺」(中国庭園を思わせる「虎渓山」)

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