♪ スタッフブログ ♪ お礼状

構造現場見学会に参加してくださった方への、お礼状の発送完了。

次は5月、もちろん、次のお楽しみイベントの準備も着々と進んでいます。

皆さん、お楽しみに!

りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO1,960

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・平等院とその浄土式庭園①!

「浄土式庭園」について検証中です。そして、前項の鳥羽離宮(遺跡)に続き、宇治市の「平等院」を取り上げます。

京都府宇治市の平等院近辺は、平安時代の皇族・貴族とは切ってみきれぬ間柄にある地域でした。この地が歴史に登場するのは9世紀末頃からで、嵯峨源氏(源氏物語の主人公・光源氏のモデルとも)の別荘がそこにありました。その後、宇多天皇が別荘を譲り受け、さらに源重信のものとなった後、藤原道長が改修し「宇宙殿」を造営しました。これが、「平等院」の原型と言って良いでしょう。

さらに、道長の子関白・藤原頼通が1052年に宇宙殿を寺院として建て直しこれが「平等院」直接のスタート。開山は園城寺(大津市、通称・三井寺)の長吏を務めた明尊で、当時の本堂は現・鳳凰堂より北にあり宇治川の河岸付近と言われています。本尊も大日如来で、現在の「平等院」のイメージとはかなり異なっていたようです。ただ、「浄土」へのあこがれは強く、翌年の1053年には早くも阿弥陀堂が建立だれました。これが今も引き継がれている「鳳凰堂」です。

では、「鳳凰堂」とはいかなる意味を持っているのでしょうか? 浄土三部経の基幹経典ともいえる「無量寿経」の中に「若欲至心生西者、先当観於一丈六像在池水上」(もし西方浄土に生まれたいと思うなら、まず、池上に存在するように、一の丈六サイズの<5m前後>像を置き、それを観るようにせよ)と言う言葉があり、それを再現したものです。

だからこそ、阿弥陀堂(鳳凰堂)と阿弥陀如来像、そして池が必要であったと言う事です。しかも、池面にそれが映し出さなければ意味がありません。現在の鳳凰堂と、そこにセットされた「浄土式庭園」がどの程度平安時代の姿を残しているかは、少なくとも専門家以外には不明です。しかし、このような発生動機から類推し、基本構成は同じであったと考えてよいでしょう。また「浄土式庭園」は阿弥陀堂、阿弥陀如来像、それらを映し出す池がセットされ初めて成り立ったと言う事も忘れてはなりません。

特に「鳳凰堂」は1336年の楠正成と足利尊氏の戦いなど、何度かの戦禍に合いましたが、奇跡的に焼失を免れました。従って、補修は何度も行われていますが、創建当時の姿を残す貴重な存在です。だからこそ国宝にも指定され、仏師・定朝作の阿弥陀如来像とともに、日本でも屈指の重要な文化財となっています。

「平等院」の創設者・藤原頼通が宇治殿と呼ばれていたことでも類推できるように、宇治と言う地は藤原氏との関連性が極めて深く、その一族の住居と思われる寝殿造遺構等も多数発掘されています。だからこそ、その後の「平等院」、同「浄土式庭園」について、次項でもその姿に迫ってみたいと思います。

そこで本日の一口アドバイス。

「平安時代と藤原氏の姿を現代に伝える・・・それが平等院!」

(りょう)

 

 

 

 

鳳凰堂:平安期の姿を現在に伝えている

 

 

 

 

 

 

 

鳳凰堂・南翼の回廊

 

 

 

 

 

 

 

 

鳳凰堂・北翼の回廊

 

りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO1,959

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・「浄土式」と言う庭園様式!

仏教の中の阿弥陀如来の位置づけ、「浄土」と「浄土式庭園」の持つ意味、について前項で確認しました。では、具体的に「浄土式庭園」とはどのよう様式を持ち、どのような作品が造られたのでしょうか。

日本に「浄土思想」が持ち込まれたのは古く、538年とされる仏教伝来とほぼ同時と言われています。ただ、仏教伝来当初は単なる死者を弔う儀式的性格が強かったようです。仏教本来の考え方、それに対する研究が本格的に行われるようになったのは、奈良時代に入り南都六宗と言われる宗派が広まってからと考えた方が良いでしょう。

その後、平安時代になると遣唐使の影響もあり、最澄の天台宗、空海の真言宗などが伝来し、やがて南都六宗以上の勢力を持つようになります。さらに、その後平安貴族の間でも、仏教が広く信仰されるようになります。ただ、貴族にとっては天台宗の基本経典である法華経の研究と言ったことよりも、現世利益+死後の極楽往生の方が重要な問題でした。これに拍車をかけたのが末法思想で、阿弥陀仏と「浄土信仰」が盛んになって行き、阿弥陀如来の仏像、同世界を現した絵画、それを収めるための寺院などが各所に造られるようになり、その延長上で普及したのが「浄土式庭園」です。従って、寝殿造庭園が内裏や高級貴族の住居に造られたのに対し、「浄土式庭園」は寺院(あるいは寺院を含んだ皇族・高級貴族の居住地)に造られ普及したことは言うまでもありません。

初期の「浄土式庭園」は寺院の金堂や阿弥陀堂の前面に池を造り、蓮の花園を設けるだけと言った簡素なものでした。このような初期(あるいは本格的「浄土式庭園」登場の前段階)的な庭園は奈良時代に既にみられました。しかし、明確に「浄土式庭園」と言えるものが登場したのは平安時代になってから。

本格的「浄土式庭園」の特性としては、メインの建物は寝殿ではなく阿弥陀堂、伽藍配置とそのスケールに対し池のウエイトが大きい、その池に映る阿弥陀堂他の姿が「浄土」を表現している・・・と言った特色を持っています。つまり、「浄土式庭園」最大のポイントは池自体にあったと言う事です。平安時代で最も著名な「浄土式庭園」は、白河院が造り始めた鳥羽離宮に付随するものと、藤原氏の法成寺・平等院など。では、これらの建物と庭園とはいったいどのようなものであったのでしょうか?

まず、鳥羽利離宮ですが、11世紀末から約80年間かけて造営されたと言われています。造営場所は平安京の南部で鴨川と接していました。規模は、東西約1.5㎞×南北約1㎞と言う広大なもので、池だけでも東西650m強×南北850m強あったと推定されています。さらにその池には、2~3個の島が浮かび、池を中心に、南殿、北殿、安楽寿院(住宅)、堂・塔などが配置されていたと言う事。それらを映し出した池面にまさに絢爛豪華な「浄土世界」を再現したのでしょう。ただし、鳥羽離宮は南北朝時代に焼失しています。

そこで本日の一口アドバイス。

「池に映し出した極楽浄土! それが浄土式庭園最大の演出!」

(りょう)

 

 

 

 

 

「鳥羽離宮 」の所在地を示した地図

 

 

 

 

 

 

 

「鳥羽離宮」の想像図

 

 

 

 

 

 

 

 

「鳥羽離宮公園」の案内図

 

♪ スタッフブログ ♪ 楽しい一日

本日、30人近い参加者の皆様とともに、無事に構造現場見学会&イチゴ狩りを楽しんできました。
「さすが、材木屋さんの木は違うねぇ。」       「お弁当オイシイ!」
  
「生まれて初めてのイチゴ狩りなの。」と乙女のように、喜んでくださるお客様の顔を見て、社長の山下も、この笑顔。
 
次回は、どんな企画をしようかと、スタッフ一同わくわくしています。
ありがとうございました。

りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO1,958

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・「浄土式庭園」の起源とは?

前項では平安時代後期とはどのような時代であったかの確認を行いました。それを背景に、今項からは「浄土式庭園」について可能な限り詳しく検証してみたいと思います。

でも、「浄土式庭園」の原点となる「浄土」とはいかなるものでしょうか? それを知るためには、仏教のおおよその流れと阿弥陀如来とはいかなる存在であるかを把握する必要があります。

仏教は紀元前500年頃、お釈迦様がインドで自由平等をベースに考え広めた思想(宗教)です。ところが、紀元前300年頃から高度な専門化傾向が強まり、これを部派仏教(日本では小乗仏教)と呼びます。さらに時代が進み、紀元前後になると部派仏教への批判が高まり、大乗仏教が登場し、やがてそれがチベット、中国等を経由し、日本でも広がります。

大乗仏教とは何かを説明することは簡単ではありません。その範囲が膨大なものであるからです。ただし、前述のように部派仏教への批判が登場の背景にあり、大衆救済が主眼が置かれたことは間違いありません。ただし、思想面(哲学)面でも高度に発達し、その原点となったのが「空」と言う発想であることも忘れてはなりません。

同時に、大乗仏教ではお釈迦様以外の多くの悟りを開いた人(あるいは超人というべき存在)が登場します。薬師如来、阿弥陀如来、大日如来(やや特殊な存在)などがその代表で、同時に独自の経典までもが作成されるようになります。大乗仏教の経典で、初期に登場しかつ最も重要な存在が、一連の般若経類、華厳経、法華経、などです。

それから少し遅れ、より多くの人を救ってくれると言われた阿弥陀如来(アミターユス「計り知れない寿をもたらす」と言う意味)の人気が高まります。そして、同如来の世界を示した経典が広まります。その代表が、浄土三部経と言われる、無量寿経(最も重要な経典)、観無量寿経、阿弥陀経の3種です。そして、同経典の主な舞台が阿弥陀如来の世界「浄土」で、西の彼方にあると言われています。

従って、浄土系仏教最大の特性は、西の彼方にある「浄土」へ阿弥陀如来に連れて行ってもらい、永遠の安息を得たい・・・と言う考え方が原点となっていると言う事。実は、これは仏教全体から観るとかなり特殊なものだとも言えます。ただ、ここで思い出すべきは、平安時代に広まった末法思想です。となれば、この世の不幸から抜け出し、彼方の「浄土」での救済を夢見ると言うのは、ある意味当然の発想かもしれません。

以上を前提とし「浄土式庭園」とは何かを定義づけると、阿弥陀如来の世界「浄土」を再現した庭、と言う事になります。もっとわかりやすく言えば、主に無量寿経に描かれている「浄土」を、当時の僧侶・平安貴族がイメージしビジュアル化した庭と言う事です。では、それが具体的にどのような姿であったのか、実際の「浄土式庭園」を参考に探っていくことにします。

そこで本日の一口アドバイス。

「阿弥陀如来の世界=浄土。平安人が再現したその姿とは・・・」

(りょう)

 

 

 

 

 

 

 

平等院:阿弥陀如来像

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平等院:雲中供養菩薩像の中の一体

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平等院:上品下生図(部分)

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