40坪の敷地面積でオープン外構とクローズ外構のコストとプランの比較。

店長の藤田です。

 

都心物件によくある40坪敷地。高低差がそこまで大きくなく2台駐車。建蔽率は50%程度となります。こんな敷地条件でオープン外構・クローズ外構の比較 ができるプランがありましたのでご紹介します。こちらは土地ご購入前から外構を含めたプラン検討をされていたお客様。結果的に土地購入の方でうまくいかず 没プランとなったのですがちょうどオープン・クローズのパターンのプランニングを行いましたのでご紹介します。

外構のプラン条件としては

意匠はナチュラル・洋風系
駐車2台
勝手口付近に大きめの土間コンクリートテラス
境界は1面のみ新設で他は既存利用
グレーチング(溝蓋必要)
多少の側溝等の補修工事が必要
道路と40cm程度の高低差

最低限の意匠は保ちつつそこまでコストが高くない適度な内容でといった感じとなります。意匠面はとりあえずいろいろありはしますが、皆さんが大体ご希望される標準的な内容です。

 

まずはオープン外構の場合

 

敷地40坪のオープン外構

 

 

 

 

 

 

敷地40坪のオープン外構

 

 

 

 

 

 

続きましてクローズ外構の場合

 

敷地40坪のクローズ外構

 

 

 

 

 

 

 

敷地40坪のクローズ外構

 

 

 

 

 

 

 

さて、実際必要な予算とはどれくらいになるのでしょうか。

詳しくは当店ホームページのこちらをご覧ください。

りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,176

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・作庭書「築山庭造伝・後篇下」⑧!

「築山庭造伝・後篇下」・・・秋里離島著 1828年の作

注意事項:「築山庭造伝・後篇」に関しては、他の作庭書以上に図面・イラストが多用されていると推定されるが、残念ながら中谷ゼミ資料に同添付はない。

16:大宮師富士氏(旧・静岡県富士郡大宮町のことか? 現在は富士宮市)の庭に関する解説

大宮師(意味不明)富士某(意味不明)の姓は和邇(ワニ=5〜6世紀の大和の豪族。ただし、ここでの関連性不明)で、上総(カズサ=現在の房総半島ほぼ全域)の長官某とも呼ばれていた。国造の記述(古事記・日本書紀等の国造神話部分に相当するのであろう)によると、和爾氏伯麿(個人名)は祟仁天皇(スイニンテンノウ=11代・伝説上の天皇。在位は99年間とされる)の子供で、40代・天武天皇二年(674年)の駿河国・国造等の記述によると(注:なぜ祟仁天皇・天武天皇等を登場させたのか意味不明。上総国・和爾氏等の関連性も意味不明)、この地に留まって富士の社(現在の「富士山本宮浅間大社」のことか? ただ、同神社に記載されている歴史と、「庭造伝」の記載内容とは合わない。別の神社である可能性も・・・)の宮司となった(「紆余曲折があったが、和爾伯磨は富士神社の宮司となった」と言う意味と推定される。だが、時代考証等に問題)。その詳細については聚国史(詳細不明。単に「日本の歴史書類」と言う事か?)などに記載されている。

補足事項:この部分は意味不明であると同時に、各登場人物の繋がりも良く分からない。著者・秋里離島が怪しげな歴史書の記述を丸写ししたのではないか?

そして、富士の社の庭は立派な築山や池があり、ぼぼ正方形で3.300㎡以上(方一千余坪)の広さがあった。

その庭からは富士山を見ることが出来た。そして、そこから見る富士山は正面の麓付近は樹林に埋め尽くされ、その有様は芙蓉の花を手に取って眺めるような美しさがあった。

国見丘は富士の社から約89歩(?)の所にある広場で、そこからの眺めは市街地を眼下にして、境内を見ることが出来るので実に素晴らしい。境内には天之浮橋と呼ばれる、長さ9m(5間)弱の橋が架かっており、池に浮かぶ中島に渡ることが出来る。池と橋の光景はまるで雲の上の世界のようにも見え、橋も雲間に浮いているようである。その他にも、名石・奇樹などが作庭に使われており、この庭は蓬莱庭と呼ばれていた。

同神社の茶間前に作られた庭園は宗偏(山田宗偏=江戸時代前期の僧侶。茶道・宗偏流を開いた)の作と伝えられるが、それが正しいか否かは良く分からない。その後この庭は何度か手を加えられ一層素晴らしくなり、座敷前の景観は文章や図描では表せないほどである。

そこで本日の一口アドバイス。

「富士宮の社に関する記述があまりにも不明瞭。歴史考証にも疑問・・・」

(りょう)

262:本宮

 

 

 

 

富士山本宮浅間大社

 

262:湧玉池

 

 

 

 

浅間大社・湧玉池

 

262:止観亭

 

 

 

 

 

 

 

宗偏流の茶室「止観亭」

節約ライトアップ。

店長の藤田です。

さてさて、昨今、ガラスと光を使った演出ってエクステリアでちょっと流行ですよね。

例えばLEDを仕込んだガラスブロックとか表札とか、デザインしたガラスを光らせるとか。。。。。

しかしながら、これらの商品はどれも高い!!

 

今回は、普通に門柱に使うアイテムを工夫して費用をかけず光の演出をした事例をご紹介します。

 

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ガラスブロックと表札はごくごくよくあるガラス表札とガラスブロックです。

玄関ポーチの明かりも利用しているのですがそれプラスこんな仕掛けを仕込んでみました。

 

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門柱の裏に照明を付けているからなのです。

 

つまり、通常普通に門柱で使用するアイテムを設計でアイデアを使い、こんな演出をしてみました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

松野屋商品入荷しました。

ここ数日暖かな春の気配を感じたかと思うと、雨で冬に逆戻り。こういうのを三寒四温というのでしょうね。

もうすぐ春が近づいて来ているということですね。

今回、松野屋商品を取り揃えました。

松野屋とは、大量生産でものを作るのではなく、

長い年月をかけて培われてきた手工業製品を扱う荒物問屋です。

手工業製品には、買いやすい値段で、良い仕事をするものが多いです。

日常に使いやすく、置いてあっても職人の技を感じる。

そんな素敵なお庭商品を取り揃えました。

ぜひご来店になってお手に取ってみてください。いいですよ。

 

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左から シダ庭ほうき 1080円  東京ちりとり 648円  木手トタンバケツM 2052円

マダガスカルトタンピッチャーS 972円 トタンひ杓 972円

他にも商品ございます。ご来店お待ちしております。

三重県いなべ市 造園・外構・エクステリア お庭づくりのプロショップ

山川

りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,175

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・作庭書「築山庭造伝・後篇下」⑦!

「築山庭造伝・後篇下」・・・秋里離島著 1828年の作

注意事項:「築山庭造伝・後篇」に関しては、他の作庭書以上に図面・イラストが多用されていると推定されるが、残念ながら中谷ゼミ資料に同添付はない。

14:あらゆるものに合う相性とは

提示した図を見ると、平凡で特に変わったところは無い。ただ、井戸があるだけだ。このような構成はあらゆるものに良くマッチする。名付けて「水のように柔軟性があり、全てにマッチする庭」と呼ぶ。素晴らしい。また、住宅等では異なる指摘もある。例えば、御殿の庭であれば、正面は南向きであり、東西14.4m(8間)×南北10.8m程度の建屋があり、庭内には滝などを作る。その場合でも滝口の井戸から水を引き、その周辺に松と竹を植える。このような水の使い方を「全てにマッチする不死の水」と呼ぶ。となれば、滝口を中心に定めた庭=「全てにマッチする不死の水」と言う事も出来る。ただし、庭の敷地が狭くて、図のように井戸廻りを作る場合もある。その場合でも、由緒正しい資料によるレイアウトであると言えば、納得する人も多くなる。

また、物語にも登場したものなど、過去の資料を調べると、滝口の構成は様々である。例えばある伝えでは、「夕方近くで闇が迫ってきたころ、井戸に車を落として、驚いで逃げようとした人がいた1~2人いた。近くでそれを見ていた人によると、さまようように井戸に近付いたが、その存在に気づかず、アクシデントを起こして驚いたようだ。そして、逃げて何とかその場をしのいだ」などと言ったエピソードも伝わる。

補足事項:この部分は原文が不明確で、訳もまた正しいか否かは不明。ただ、後の部分と意味がつながらないため、原文表記・訳のいずれかが間違っている可能性が強い。

いずれにしても、滝口の井戸が庭の構成に大きく影響することは間違いない。古くから、このようなメインとなる井戸の事を「勤めの井戸」と呼ぶ。これは、詰所の語源にもなった。井戸のある庭については、提示した図を参考にして対応する事。

15:清見寺の庭について

*清見寺(セイケンジ=静岡県清水区にある、臨済宗妙心寺派の寺院)の詳細は東海道名称図会(前出。江戸時代後期に発刊された名所案内絵本)に紹介されているので省略する。ここからは、同寺の庭について述べる。この寺は人々に広く知られており、その寺のある山の中腹に、古くから寺の境界近くに庵があった。そこには滝と泉があり、滝からは水がほとばしるように出ていた。しかも、年中その水が渇れることは無かった。

水を引き込むために、流れから筧(竹などを使った、水を引き込むための装置)を使って、台所や手水に清水を引き、庭の泉も満々としていた。紅白の小魚が岩の間を泳ぎ回り、庭の広い敷地には樹木が葉を茂らせ、枝を一杯に伸ばし、岩角にツツジ・水際にヤマブキ、その他、樹齢200年とも伝えられるシダレザクラが、春を忘れることなく咲き誇った。

他にも、ハス・カキツバタ・クズ・ススキ・ハギ・フジ・キキョウなどが植えられ、さらに秋にはモミジも真っ赤に色づく。だから、四季を問わず楽しめる名庭となり、庭不尽思庭(年中楽しむものが尽きる事が無い庭)と言う唐風の名前が付けられた。まさに、東海道で随一の庭だ。作庭者は山元道斎(詳細不明)で、彼は作庭家の元祖にもなった。天正時代(1573〜1593年)の作品である。

御神君東照大権現(徳川家康)様は駿府(現在の静岡市葵区周辺)で大納言(行政者の官位)に就任し、当時にこの地を訪れ、部下に命じて上記の庭を作られた。そして、同庭園には、自ら桜二本と梅・松の他数種の樹木が植えられ、そこで遊びくつろがれた。今もそれらの樹木は生き見事に成長している。花も格別に美しい。このように、清見寺の庭園は誠に目出度い庭である。

*また、泉水へと向かうところに大きな石が設置されている。象か羊が伏しているような形の石で、その名を初平石と言う。その時によって、大きくなったり小さくなったりすると伝えられる奇妙な石だ。海中から(以下、原文自体が脱落)・・・

同寺は天文時代(1532~1555年)中期に作られ、今川義元公の姑の父雪斎和尚(大原雪斎=今川家の家臣~臨済宗の禅僧。徳川家康の師であったとも伝えられる)が開基(創建者)で開山(最初の住職)は本光国師(崇伝=安土桃山時代~江戸時代初期の臨済宗の禅僧)である。その庭は多くの罪人を動員して彼(おそらく本光国司の事)が自分で作った。そして、庭の中央には休憩所(亭)があったが、これも崇伝作とされている。そして、東照大権現様は自分の手で、その亭の近くに前述の梅などを植えられた。他に、ヤマモモなども植えたとの事。

また、同庭の手水鉢中の石には、「掛目三貫六百目」と彫り付けられている。その石は水に浮かんでおり決して沈まない。真に不思議である。まさに奇石と言うにふさわしい。その形は図に提示したとおりだ。同手水鉢のシンクサイズは75㎝(2.5尺)程度であったと記憶している。

そこで本日の一口アドバイス。

「徳川家康ゆかりの清見庭園。不思議な伝承の正体とは???」

(りょう)

261:清見寺庭園

 

 

 

清見寺の庭園

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