「木の文化」は、まだ生きている(飴村雄輔著) 連載第5回

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1:何故、木材は使われなくなったか③

 

戦後からの住宅事情と林業の変遷

 

まず、ここまで来てしまった戦後からの住宅と木材業界の経緯を検証してみます。戦後間もない頃、木材の流通源はもちろん国内林業にありました。

すっかり荒れ果てた山に、戦後復興の貴重な資源として、まず全国一斉に杉、桧などの建築用材となる針葉樹の植林が押し進められました。この時、それまでの混合自然林もかなり人工林に変更されていったようです。これは、それまでの自然林から採取した薪や炭が主材であった生活用燃料も、今後は一斉に電気やガスに変更していこうという国のエネルギー改革の大きな転換政策にも合致していたようです。

国有林はもちろん、民有林に対してもそれは国策として励行されました。木材市場は一気に活況を呈しましたが、植林した樹はまだ伐採期に至りません。そこで圧倒的に不足する住宅事情を抱え、政府は木材輸入を少しずつ緩和し、ついに1964年木材輸入を全面自由化します。

このころ住宅業界は団地型集合住宅を量産し、1970年代に入るとマンションブームとなり、住宅造成工事と分譲住宅ラッシュになります。輸入木材は一気に全国に広がり、内地材の相場は崩れていきます。それでも地方ではまだ昔ながらの和風住宅が求められた為、内地材は一定の需要があり市場にも結構流通していました。

このころから合板ベニヤがすっかり一般化され、これらの技術を駆使して新建材と称される合板下地にプリント紙や単板を貼った床材や内装材が流通し始めます。続いて石膏ボードやスレートの屋根材や外壁専用商品も登場します。

追いかけるように金属製品やコンクリート製品、その後樹脂製品もいよいよ登場し、住宅の内外装材は木材や土壁に代わってこれら工業製品がたちまち席巻していきます。

1974年にはツーバイフォー工法が登場します。1980年代からは北欧風の輸入住宅も上陸し、内部仕様はますます洋風化に移行し、新たな色とりどりの建材が生まれてきます。

このころ、木材林業は内地材の需要低迷と相場の落ち込みで、各林業組合も深刻な状況にありました。山麓の製材所の一部は閉鎖に追い込まれ、内地材から外材丸太挽きに転向していく工場も増えていきます。林野庁は戦後植林した国有林の間伐材の用途に困り果てて、住宅や各業界に提案を募り、一方、民有林ではほぼ間伐も出来ず放置状態になります。

 

1980年代に登場したプレカット工場は輸入材を主材にした構造材を使って大手ハウスメーカーと連携し量産体制に入ります。バブルが崩壊した90年代に入ると、プレカット工場はさらに全国に広がり、それまで木材の継ぎ手を自ら加工して家を建てていた大工達は急速に減っていきました。

2000年代、住宅は益々工業化を目指し、ハウスメーカーは工期短縮と仕様の統一化を図ります。プレカット工場の構造主材も変形の少ない集成材が登場し、広まっていきます。建材メーカーも競争激化の中にあり、分厚いカタログで販売網を広げ、ネット販売も始まりました。一部商社は輸入建材や特殊な輸入木材の取り扱いに走りだします。このあおりで国内の木材問屋や木材販売店、金物店などの廃業、倒産、転業が相次ぎます。

 

一方、国内の林業は一斉に伐採期が近づいているにもかかわらず需要の低迷は続き、伐採した丸太はパルプ、チップ用材として多く転用されていきます。

2010年代に入ると国内の伐採木材は集成材にも使われるようになり、バイオマス需要、さらに構造材用「CLT」にも内地材が転用されはじめ、今では柱や梁材を大きな丸太から綿密に計算して木取りを進めてきたかつての製剤技術もこの流れの中では特に必要とされなくなり、各製材所の体制も見直しと共に今では後継者問題が深刻化しているようです。

EPSON MFP image

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これが戦後から現在までの住宅事情と木材流通、国内林業が歩んできた70年の激変の歴史です。簡単にざっくりと追ってみましたが、こうして歴史をなぞっていくと、戦後のひっ迫した住宅事情の問題解決と、急速な経済復興を目指した日本にとって、国内林業と木材流通業界を犠牲にしてきたのは、避けられなかった事情なのかもしれません。

そして高度成長期の住宅の量産体制への対応は、ある意味、輸入木材と建材メーカーのおかげで達成できたことであり、当時多くの人たちの夢であったマイホームを実現させた原動力にも大きな役割を果たしたことは間違いありません。

ただ、時代の流れでその後、仕方なく消えていった業界や、消えていった業種、業者や職人たちはともかくとして、この四半世紀の「ツケ」が今、結果として現代社会の中でどのような実態になっているかを、ここで、きちんと整理しておく必要があります。

でなければ、この流れを放置したままの延長線上には、取り返しのつかない大きな社会問題が待ち受けているような気がするのです。

 

みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,034

「世界のガーデン」第四章:イラン以外のペルシャ式庭園③

 

第16回:グラナダ編①「アルハンブラ宮殿」

 

イラン以外の「ペルシャ式庭園」を紹介中。今回は、スペインのグラナダ市にある「アルハンブラ宮殿」を取り上げます。

実は南仏・イタリア南部・スペイン南部など、ヨーロッパの地中海沿岸は、何度かイスラム勢力の進出を許し、その統治下時代も経験しています。このため、ペルシャ式の建造物・庭園等も数多く造られました。スペインのグラナダにも、3つ(「アルハンブラ宮殿」「ヘラリーフェ」「アルバイシン」)の歴史建造物が残されています。今回はその中の「アルハンブラ宮殿」を取り上げますが、世界中のペルシャ式遺跡・建造物の中で、インドの「タージマハル」と共に、もっとも有名な物と言えるかもしれません。勿論、世界遺産にも指定されています。

「アルハンブラ宮殿」は宮殿と呼ばれていますが、実際は城壁都市と言った方がふさわしい建造物で、ここを舞台とした戦いも何度も経験しています。つまり、イスラム勢力がヨーロッパに基盤を築くための城のような役割を果たしていたという事。だからこそ、丘の上にあり頑健な外壁で守られています。従って、一人の支配者が短期間に建造したものではありません。

「アルハンブラ宮殿」が現在のような大規模なものになったのは、グラナダを首都とした「ナスル朝」(1238〜1492年)時代のことで、同期に、水道の設置・コマレス宮とその関連建造物・マチューカの塔・コマレスの塔・正義の門・スィエテ・スエーロの門・ライオンの中庭とその関連建造物などが造られ、現在に近い形となりました。

これらの建造物の中でも、ライオンの中庭(長さ28m×幅16m)に関連するものは特に著名で、質・スケール共にもっとも高い評価を受けています。

現在の主要構成物としては、ファサード・マチューカの中庭・コマレス宮とその関連物・ライオンの中庭とその関連物・パルタルと呼ばれる建物とその関連物・フェネラリーフェと呼ばれる建物とその関連物・カルロス5世の宮殿とその関連物・・・などをピックアップする事が出来ます。

「アルハンブラ宮殿」建造後の歴史を見ると、1492年にカトリック勢力の「レコンキスタ」が奪還し、イスラム勢力統治時代が終了。ただし、ヨーロッパ人も建造物の素晴らしさは認めており、カルロス5世は避暑地として使用し、彼の宮殿(カルロス5世の宮殿)も増設しています。

さらに、現在のスペインになった後も、他地区ではイスラム系建造物をカトリック系建造物に建て替えた事例もありましたが、「アルハンブラ宮殿」はイスラム様式のまま残しました。適切な選択であったと言えます。結果、歴史遺産が保存されたばかりか、同国でも最も有名な観光名所にもなっています。勿論、「アルハンブラ宮殿」は日本人にも大人気で、多数の人が訪れています。

全景

 

 

 

 

 

グラナダ市南東の丘にある「アルハンブラ宮殿」

 

アラヤネス

 

 

 

 

 

 

 

アラネヤスのパティオ

 

パルタル

 

 

 

パルタル庭園

 

ライオンの中庭[1]

 

 

 

 

 

ライオンの中庭

 

「木の文化」は、まだ生きている(飴村雄輔著) 連載第4回

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1:何故、木材は使われなくなったか②

 

50年で変貌した住宅業界

半世紀前に時代を戻してみましょう。正確には昭和30年代の後半の東京オリンピックのあった頃、日本はまだ高度成長期に入る直前でした。地方都市の当時の街並みは子供らがしっかり覚えています。

そのころ、地域を問わずその町で建築材料のお店というものは、材木店と金物店くらいでした。材木屋は木材だけでなく竹材や合板も確かおいていたと思います。当時の金物屋には金物以外に大工道具、その他、セメント、砂、レンガやタイル、塗料も含め、それらを扱う専門職人の道具類もたくさん並んでいた記憶があります。

 

施工業者としては、左官屋、瓦屋、畳屋、建具屋、ガラス屋、石屋、ブリキ屋、と呼ばれる職人が点在していました。彼らは材料含め製作や施工も請け負う職人たちです。他に、設備業者としてあったのは電機屋と水道業者ぐらいでした。これらの業者も含めすべてを仕切っていたのが「町の大工さん」でした。材木屋と金物屋と、たったこれだけの専門施工業種だけで、当時の木造住宅建築はすべてこと足りていたのです。

当時の大工は、お客様と打ち合わせして間取り設計、骨組みの伏せ図も起こし、基礎から木材の選定、木取り加工まで建物すべての責任を負う立場でした。

したがって、すべての分野で専門的な知識を要求されました。また、何でも知っているから「大工」と呼ばれていたのです。そして新築棟上げ時、指示をだす大工の棟梁の立ち姿は当時の子供や若者の憧れの職業のひとつでもあったのです。

図-03昔の建具屋のたたずまい

 

 

 

 

 

 

 

昔の建具屋のたたずまい

 

あれから50年が経った今、建築材料は木材も金物も大型ホームセンターの売り場に圧倒的品ぞろえで並び、昔の材木屋も金物屋もすっかり減ってしまいました。そして今や、専用の建材製品はメーカーから直接ネット調達出来るようになっています。

新築住宅は地元の工務店や大工棟梁の手から、専門ハウスメーカーが取って代わり、彼等は全国の各地に進出し、合理的営業手法で熾烈な顧客獲得競争を続けています。関わる専門業者もあらゆる工種が専門化され、新築が出来上がるまでに出入りする専門業者数は20社以上と聞きます。施主から見れば、設計担当者と営業担当者が居て、そして最後まで現場工程を統括する監督も別の担当者になります。大工はプレカット工場から送られてくる部材を組み立てるだけで、構造全体の納まりに責任をもって目を通してくれるわけではありません。果たしてその建物すべての詳細を誰が把握してくれているのかは、もうわからなくなってきています。

このようにたった半世紀で、日本の住宅建築はすっかり変わってしまいました。半世紀というのは長いようですが、日本の木造建築というものは千数百年に及ぶ歴史を刻み、様々な時代背景を通して技も仕組みも受け継がれてきたことを考えると、たった50年の短期間で起こった出来事です。

日本は世界を驚かせるほどの伝統的な木造建築物が今でも厳然と残っている国です。それももはや別の次元の建築だと思っている人がいるようですが、50年前までは伝統的木造建築物と云われる建物も地域の大工棟梁から見れば参考となる程度の建築だったのです。

もちろん当時でも、その大工棟梁になることは大変ではありましたが、その棟梁が急速に居なくなっりつつあるこの時代、もう取り返せないかもしれない「大切な何か」を失い始めていることに警鐘を鳴らしたいと思います。

 

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