みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,057

「世界のガーデン」第七章:「平面幾何学式(フランス式)庭園」

 

第39回:「ライブイエ城」とその庭園

 

「平面幾何学式(フランス式)庭園」・・・今回はパリの南西約50㎞の位置にある「ライブイエ城(宮殿)」とそこにセットされた庭園を取り上げます。

「ライブイエ」とは街の名前で、イル=ド=フランス地域圏(パリとその周辺エリア)のイリーヌ県にある伝統ある都市。そして、「ライブイエ城」は、14世紀後半に当時の国王「シャルル5世」の顧問であった「ジャン・ベルニエ」と言う人物により造られました。その後、「ダルジェンヌ家」の所有となり、さらに紆余曲折を経て、「ルイ13世」(在位1,601~1,643)の頃からより重要な役割を果たすことになります。またそれ以降、様々な歴史舞台に登場するようになります。

「ライブイエ城」は「ルイ14世」「ルイ16世」、それに「ナポレオン1世」などが所有したこともあり、「ライブイエ宮殿」とも呼ばれるようになったのもこのためです。

庭園も城と同様時代と共に大きく変化します。

「ライブイエ城」の敷地は150ヘクタールに及び、最初に本格的な庭園を造ったのは、当時の財務知事「ジャン=バティスト・フルオリ・ダルムノンヴィル」(1,660~1,728年)で「平面幾何学式」の庭であったとされています。

しかし、「ジャン=バティスト・フルオリ・ダルムノンヴィル」が大切にしていた「ライブイエ城」は、その後間もなく「ルイ14世」と同婦人「モンテスパン」の長男「トゥールーズ伯爵」の所有となります。そして彼はこの城が余程気に入ったのか、様々な改装を施し、この時<洗練された内装で著名な「集会のアパルトマン」>も新設。しかし、実際に訪れたのはたった2回だけと言った記録も残っています。せっかくやや強引な方法で手に入れたにもかかわらず、皮肉な結果と言わざるを得ません。

さらに、城と庭園は「トゥールーズ伯爵」の一人息子「ド・パンティエーヴル侯爵」(1,725~1,793年・「ルイ16世」の従兄弟)に譲りますが、彼もまた庭園に手を入れ散策を楽しんだとの事。この時、「ファブリック」と呼ばれる小さな建物もいくつか新設され、その中の「田舎家」は貝殻の内外装が施され、今も城内の代表的建物となっています。

その後、狩猟好きの「ルイ16世」(在位1,754~1,793年)が広い敷地を持つこの城に興味を示したためか、彼に高額で売却。これにより、さらに多くの使用人が働けるよう別棟・厩などが付け加わります。また、ある意味当然の事ながら、妻「マリー=アントワネット」の好みに合わせ、「乳製品加工所」「実験農場」などを追加。庭園に関しても、芸術家「ユベール=ローベル」に依頼し、自然観をより大切にした「風景式(イギリス式)」へと改造させました。おそらく、この時点で現在に近い形となったと推定されます。

さらに、「ナポレオン1世」(1,769~1,821年)へと所有が移り、彼は皇帝の座を退き、エルバ島へと追放される最後の夜をこの城で過ごしました。

フランスが共和政となった後も、保養地・大統領別邸(現在)・などの変遷を経て、2,009年まで各国の元首を迎える重要施設として使われてきました。特に、1,975年には<第1回サミット(当時はG6 )会場>となり、日本から三木総理も出席しました。

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「ライブイエ城(宮殿)」全景

 

ライブイエ城アップ

 

 

 

 

 

「ライブイエ城」

 

運河l

 

 

 

 

 

 

運河と庭園

 

 

田舎家

 

 

 

 

 

 

田舎家

 

橋から田舎家側を観る

 

 

 

 

田舎屋周辺の風景

 

ナポレオンの部屋

 

 

 

 

 

ナポレオンの居室

 

紋章

 

 

 

 

 

 

 

紋章

 

アプローチの改装工事

アプローチの改装工事のご依頼をいただきました。

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和風の石張りが施してある玄関までの通路を、明るい感じにしたい。

と施工事例が掲載されている当店のチラシをご持参されてのご要望でした。

とても明るい雰囲気になりました。とお喜びいただけました。ありがとうございました。

みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,056

「世界のガーデン」第七章:「平面幾何学式(フランス式)庭園」

 

第38回:「コンビエーニュ宮殿」と伝説の森

 

「平面幾何学式(フランス式)庭園」。今回は、「コンピエーニュ宮殿」とその庭園を取り上げます。とは言っても、現地へ行かない限り庭園に関する入手可能な資料は極めて少なく、宮殿のある街・宮殿自体・ロマンスに絡む伝説・・・と言った事を纏める程度となります。ご了承ください。

まず同宮殿のある「コンピエーニュ」と言う街について。この街はフランス北部の「オワーズ県」にあるコミューンの1つ。都市圏全体を合わせても人口10万人強のエリアで、パリやその周辺とは異なり、静かな田園地帯が大半を占めています。

ただし、歴史の舞台には古くから登場し、888年にはこの地で西フランク王「ウード」が戴冠。1,374年には「コンピエーニュ宮殿」の前身となる「コンピエーニュ城」が完成。百年戦争の舞台となり、1,430年には「ジャンヌダルク」が捉えられる。1,918年には第一次世界大戦終結に伴い停戦協定が結ばれる。等々。

「コンピエーニュ宮殿」に関しては、「コンピエーニュ城」を「ルイ15世」が全面改装し宮殿として使われるようになります。さらに、18世紀末に「ナポレオン1世」が手を加え、現在のような新古典様式の建造物になったとの事。

このような歴史変遷以上に、悲劇の王と王妃となった「ルイ16世」と「マリーアントワネット」の出会いの場となった事で現在も伝説の場として語り継がれています。ただし、2人の本当の出会いの場は、宮殿近くの「コンピエーニュの森」だったようで、現在も約145㎢に及ぶグリーンゾーンが広がり、多くの観光客が訪れます。勿論、「ルイ16世」と「マリーアントワネット」の出会いのシーンは、多くの演劇・映画にも登場します。

最も重要な庭園ですが、残念ながら詳細は不明。ただ、「コンピエーニュ宮殿」が現在は「第二帝政博物館」「交通博物館」となり一般公開されており、庭園も散策する事が可能です。どうしてもより詳しく知りたい方は、直接現地へ・・・

庭園

 

 

 

 

 

 

 

 

現在の「コンピエーニュ庭園」

 

 

コンビエーニュ宮殿入り口付近

 

 

 

 

「コンピエーニュ宮殿」の入り口付近
絵画:ポール・ヌエ

 

 

 

 

 

「ポール・ヌエ」が描いた「コンピエーニュの森」

 

道標

 

 

 

 

 

 

 

「コンピエーニュの森」にある道標

 

街並み

 

 

 

 

 

 

「コンピエーニュ」の街並み

 

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コミューンの紋章

 

 

 

飾り付け♪

明日12月6日(日)は定休日とさせていただきます。

ご迷惑をおかけいたしますが、よろしくお願いいたします。

 

お店にクリスマスツリー飾りました。来週、観に来てくださいね(^^♪

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