りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,041

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・「江戸時代前期」と言う時代?

安土・桃山時代までの「日本庭園と日本外構」について検証してきました。続いて、この項からは同テーマで「江戸時代前期」にスポットを当てます。まずは、「江戸時代前期」とはどのような時代であったかの確認から。

「江戸時代」とは一般的に1603年の徳川家康征夷大将軍就任~1867年の徳川慶喜大政奉還までの、約260年間を指します(若干の異説有)。そして、この260年間の中の元禄時代(1688~1704年)までを「江戸時代前期」と考えて良いでしょう。つまり、初代・徳川家康、2代・秀忠、3代・家光、4代・家綱、5代・綱吉の時代、約100年間と言う事になります。

同時代最大の特色は、戦国時代が終了し、安土・桃山時代(織田・豊臣時代)を経て、完全に平和な時代へ移行したと言う事。社会の安定と同時に、経済が爆発的に成長し、日本の歴史の中でも屈指の高度経済成長期であったと言われています。その一方で、文化面でも、東山文化~安土・桃山文化~元禄文化へと、大きな広がりを見せます。乱暴な表現かもしれませんが、「江戸時代前期」=「おおむね良い時代」と言っても良いでしょう。

もう少し具体的に歴史の流れを追います。織田信長が1580年代にほぼ天下を統一し、同時に戦国時代が一段落します。そして、彼は本能寺の変(1582年)で明智光秀により抹殺されますが、豊臣秀吉が逆にこれをチャンスとして、完全に天下を統一。この期間を言うまでもなく安土・桃山時代と呼びます。ただし、天下は統一されましたが、勢力争いは続き、やがて石田三成を代表とするグループ(西軍)と徳川家康を代表とするグループに2分され、1600年の関ケ原合戦で激突、家康グループが勝利し、事実上の徳川の世となります。そして、前述のごとく1603年に家康が征夷大将軍になり「江戸時代」の正式スタートとなります。

ただ、経済的にみると、この間に別の顔が見えてきます。最初の動機は、戦争のための資金が欲しかったためかもしれませんが、織田信長は徹底的な規制緩和策を取ったと言う事。これが、経済大発展につながったと言う点です。そして、信長ほどではありませんでしたが、豊臣秀吉も緩和路線を維持し、経済成長が持続し、これが結果として「江戸時代前期」に大きく貢献します。経済発展は当然文化面でもプラスに作用しました。

ただし、徳川家康は緩和策から規制策へと別の舵を切ります。国全体の経済発展よりも、徳川家安定&経済独占≒規制路線を打ち出したと言う次第。その初期的な対策が、許可制の貿易です(オランダとの通商許可証発行<1609年>)で、さらに長崎・出島以外での貿易禁止(鎖国。北海道、琉球島では一部例外もあった)など、3代将軍・家光の時代までに規制体制が完全に整います。

また、鎖国の決定的要因となったのが、キリスト教弾圧に対抗した反乱・島原の乱(1638年4月終結)でした。肥前(熊本県)島原で起こった事件ですが、これによりキリスト教弾圧がさらに強まり、鎖国の徹底につながったからです。ただし、日本人の海外進出は続き、その代表的出来事が、山田長政のタイ国での活躍です。

以上を総括すると、①:江戸時代前期は一部反乱事件を除き平和な時代であった ②:平和と徳川政権維持のために規制策が重視された ③:規制策は重視されたが、織田信長以来の経済発展+農業の発展で、好景気は元禄時代まで維持された ④:政治の中心は江戸であったが、大坂(現在の大阪)が経済都市として発展し、同時に特有の上方文化も生まれた ⑤:国全体としては、徳川家に従属する藩が地方を統治し、日本特有の政治形態と流通機構が定着した・・・などを上げることが出来ます。

そこで本日の一口アドバイス。

「江戸時代前期=おおむね良い時代。だが、中期へのマイナス要因も・・・」

(りょう)

 

 

 

 

 

 

 

初代:徳川家康

 

 

 

 

 

 

 

 

2代:徳川秀忠

 

 

 

 

 

 

3代:徳川家光

 

 

 

 

 

 

 

 

4代:徳川家綱

 

 

 

 

 

 

 

 

5代:徳川綱吉