りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,069

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・「南禅寺」とその名園とは①?

江戸時代前半の代表的庭園を紹介中。この項からは「南禅寺」を取り上げます。ただ、「南禅寺」に関しては、室町・戦国時代を代表する寺院としても、既に少し紹介しました。当時から大きな影響力を持つ大寺であったからです。ただ、戦乱で完全焼失し、当時の面影を示すものはほとんど残っていません。そして、現在に至る「南禅寺」は1605年以降に随時再建されたものです。従って、改めて、江戸時代前期を代表する寺院・庭園として取り上げます。

「南禅寺」は京都府左京区南禅寺福地町にある、臨済宗南禅寺派の大本山。山号は瑞龍山で、正式名は太平興国南禅禅寺となります。本尊は釈迦如来で、開基(創始者)・亀山法皇、開山(最初の住職)・無関普門(大明国師)。また、日本初の禅系統勅願寺(天皇・上皇直系の寺院)で、京都五山・鎌倉五山の上を行く別格寺院でもあります。

もう少し詳しく寺歴を辿ります。現在「南禅寺」がある場所には、同寺建立以前に後嵯峨天皇が1264年に造営した離宮・禅林寺殿(ぜんりんじどの)がありました。この離宮は上の御所・下の御所に分かれ、上の御所内に建設された持仏堂を「南禅院」と称しており、これが「南禅寺」の別院・南禅院として引き継がれたとの事。

その後、亀山上皇が40歳(1289年)の時に出家し法王となり、1291年に禅林寺殿を寺院とするにあたり、無関普門(当時80歳)を呼び最初の住職とします。この時「龍安山禅林寺禅寺」と命名。これが「南禅寺」直接の期限となります。また、無関普門を開山とするにあたり、当時禅林寺殿には妖怪が出没し法王・官人を悩ませたが、無関普門が弟子を引き連れ禅林寺殿を訪れると、彼らが座禅を組んだだけで退散しました。そのため彼を住職に招いたと言う伝承があります。また、無関普門は長野県出身で、40歳で宋に留学し10年以上を過ごしたという、日本を代表する禅僧の一人でもあります。また、1352年には「夢窓疎石」も同寺に住したとの事。

しかし、「南禅寺」は臨済禅を代表する寺院でありながら、応仁の乱で完全焼失(1467年)し、江戸時代まで放置状態にありました。しかし、1605年に崇伝と言う僧が入寺。彼は「黒衣の宰相」とも呼ばれる政治家でもあり、徳川家康の側近として社寺復興政策に携わります。当然のことながら、これを機会に「南禅寺」の再興も急速に進み、現在に至ります。

現「南禅寺」の伽藍を確認(境内案内図参照)しておくと、勅使門(1641年再建)、法堂(1895年焼失〜1909年再々建)、三門(1628年再建)、方丈+庭園、別院・塔頭、などで構成。また、湯豆腐、哲学の道との隣接、敷地内を流れる琵琶湖疏水橋なども含め、京都でも屈指の名所となっています。

そこで本日の一口アドバイス。

「江戸時代前期に再建された、臨済宗最高峰の寺院・南禅寺!」

(りょう)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

境内案内図

 

 

 

 

 

 

三門

 

 

 

 

 

 

法堂

 

 

 

 

 

 

 

 

方丈

 

 

 

 

 

 

金地院