りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,071

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・「知恩院」とその名園とは①?

江戸時代前期の庭園を紹介中。この項では、「南禅寺」に続き「知恩院」とその庭を取り上げます。

「知恩院」も、室町・戦国のコーナーで一部取り上げました。「南禅寺」同様、同時代から活動していた寺院であったからです。ただし、室町・戦国期には浄土真宗ほど信者の数は多くなかったようで、寺としてのスケールも小さかった模様。また、御多分に漏れず応仁の乱で完全焼失し一時期滋賀県に移転するなど、建造物として同時代の面影を留めるものは殆どゼロの状態。現在の「知恩院」は江戸時代前期以降に随時再建されたもので、改めて江戸時代前期を代表する寺院・庭園として取り上げました。

「知恩院」は京都市東山区にある浄土宗の総本山。山号は華頂山で、正式名称は「華頂山知恩院大谷寺(かちょうざんちおんいんおおたにでら)」となります。面白いのは、本尊は法然上人+阿弥陀如来と言う点。これは、浄土宗(法然)、浄土真宗(親鸞)特有のもので、当時は仏教宗派と言うより新興宗教に近い存在であったと考えるべきでしょう。開基(創始者)は勿論法然。

寺歴を辿ると、法然が後半生を過ごし没した地に建てられたのが「知恩院」の元(この風習も浄土真宗が真似る)。ただし、創建当初は小規模なもので、現在のように大規模な伽藍構成となったのは、前述のごとく江戸時代前期以降。浄土宗は徳川家が信仰対象とした宗派でもあり、幕府の肝入りで復興作業が実施され、今日の礎を築いたと解釈してよいでしょう。

法然は1133年、美作国(岡山県)に生まれ、18歳の時比叡山に入り修行します。しかし、43歳(1175年)で阿弥陀如来信仰=専修念仏と言う思想を説き、比叡山を後にします。これが浄土宗のスタートとなりますが、政府の弾圧を受け、流罪になるなど波乱万丈の人生を送り80歳(1212年)没します。その後半生の主力活躍場所・没所となったのが、「知恩院」と同地です。しかし、1277年には延暦寺宗徒により破壊され、1234年に弟子の勢観房源智が再興。この時、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜されようやく公的にその活動が認められました。その後も何度か災禍・再興を繰り返します。

江戸時代に入ると、徳川家康が「知恩院」の再建を指示(1608年)。以後、徳川秀忠も再建事業を受け継ぎ、1621年に三門が完成するなど、巨寺として生まれ変わり現在に至ります。

現在の伽藍構造を見ると(境内案内図参照)、三門(国宝、現存する三門では日本一)、御影堂(本堂・国宝、1639年・徳川家光が建立)、経蔵(重要文化財)、大鐘楼(重要文化財)、大方丈・小方丈(重要文化財)+庭園、勢至堂(重要文化財)、阿弥陀堂、宝仏殿、権現堂、山亭&庭園、法然上人廟、多宝塔、濡髪大明神、友禅園&庭園、など多様な建造物があり、まさに京都を代表する大寺という事が出来ます。

そこで本日の一口アドバイス。

「法然の活動拠点〜江戸時代前期に巨大寺院に変身し現代へ・・・知恩院!」

(りょう)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

境内案内図

 

 

 

 

 

 

三門(国宝)

 

 

 

 

 

御影堂(本堂・国宝)

 

 

 

 

 

大方丈(左・重要文化財) 小方丈(奥・重要文化財)

 

 

 

 

 

勢至堂(重要文化財)

 

 

 

 

 

 

 

 

多宝塔

 

 

 

 

 

法然上人廟

 

 

法然上人行状図