みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,238

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・「万博記念公園日本庭園」とは①?

昭和の庭園を紹介中。これまで、「重森美玲」「中根金作」「飯田十基」の作品を紹介。この項からは「田治六郎」の作品を取り上げます。まずは代表作「万博記念公園日本庭園」から。

「万博記念公園日本庭園」はその名が示す通り、「大阪万博」開催に伴い出展作品の一つとして造られました。ただ、同庭園の説明に入る前に、万博とは何であったかを確認しておきます。ある意味、東京オリンピックと対をなすあまりにも巨大なプロジェクトであり人々の記憶に残っている。にもかかわらず、詳細については時代の変化とともに夢中に霞みつつあるからです。

「日本万国博覧会」(英名:Japan W0rld Exposition)、これが同万博の正式名。通称は「万博」「大阪万博」「EXPO’70」等。開催期間は1970年3月14日~1970年9月13日までの183日間。開催場所は大阪府吹田市の千里丘陵で大造成工事の上会場が確保されました。主催は「財団法人日本万国博覧会協会、名誉会長は当時の皇太子・明仁親王(現・天皇陛下)、名誉会長は当時の内閣総理大臣・佐藤栄作で、このメンバーを見ても分かる通り、名実ともに先進国の一員に加わるための国家プロジェクトでもありました。

また、「大阪万博」のシンボルとして建造された「太陽の塔」は岡本太郎の作で、現在もその巨体を維持し会場施設を活用するために造られた「万博記念公園」の象徴として生き続けています。と言うより、実用と言う概念を一切廃した建造物としては世界最大級のもので、岡本太郎の意思・芸術・平和の理念を込めて人々を見つめ続けています。また、「万博」のテーマは「人類の進歩と調和」で77ヶ国が参加し、入場者数の総数は64,218,770人(うち外国人170万人)に達しました。勿論、このような入場者数を誇る企画はその後に日本に存在しません。

続いて、本題の「万博記念公園」(案内図参照)内に造られた「日本庭園」の作者・田治六郎(1904〜1978年)について。彼は石川県七尾市に生まれ、東京帝国大学(現・東大)農学部卒業〜修士課程修了。その後、内務省都市計画大阪地方委員会技師となり、多くの都市開発に参画しました。つまり、役人上がりのエリートで、急成長下の日本の都市開発に重要な役割を果たした人物。逆に言うなら、それ以前の作庭家とは経路の違った経歴の持ち主でもあります。従って、彼の作品(参画事業)も「靭公園」「大阪城公園」「城北公園」「中之島公園」「長居公園」など大阪の都市公園が中心(他に秋田の「水心苑<日本庭園>」がある)となっています。なお、「日本庭園」とは異なりますが、昭和を代表する公園・緑地も多く、そのいくつかは取り上げる所存です。

そこで本日の一口アドバイス。

「急成長時代の象徴・万博。巨大プロジェクトが描いた夢と現実とは・・・」

(みずき りょう)

324:万博開会式

 

 

 

 

万博開会式

 

324:会場風景

 

 

 

 

会場風景:後方太陽の塔

 

324:会場風景②

 

 

 

 

会場風景②

 

324:万博閉会式

 

 

 

 

 

万博閉会式

 

324:園内マップ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

万博記念公園案内図