みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,022

「世界のガーデン」 第二章:中東の古代史と庭園遺跡①

第3回:メソポタミア文明〜ペルシャ帝国まで

第二章では、<メソポタミア文明〜ペルシャが隆盛に至るまでの約2,500年間の中東動向>と、現時点では<世界最古と推定される庭園遺跡「パサルガダエ庭園」と、その後の都「ペルセポリス」の庭園>について検証します。

メソポタミア文明はチグリス・ユーフラテス文明とも別称されています。その理由はチグリス川とユーフラテス川との間の三角州の中で芽生えた文明であるため。メソポタミアとはギリシャ語で「川に挟まれた場所」という意味でもあります。

この文明が生まれた最大の理由は<川に挟まれた肥沃な土地と、それを活用した農業が発達>したため。つまり、生活に余裕が出来、その余力から世界でも最も早く大きな人間集団が生まれた。具体的には、BC3,500〜3,000年頃にシュメール人(民族系統不明)と呼ばれる人たちが、中心部に神殿・聖塔などを持つ都市を創り出したと言う次第。そして、シュメール人は<楔形文字>を生み出し、さらに文明の発達をスピードアップさせました。

しかし、BC2,350年頃、シュメール人はセム系民族(セム系語を使う民族。北アフリカ・中東・西アジア・アラビア半島等に居住)のアッカド人に征服され、BC2,000年頃には同じセム系のアルム人が主体者となります。そして、このアルム人の王国がバビロニアで、彼等は有名な<ハムラビ法典>を発布。つまり、メソポタミア文明は1,500年程続いたことになりますが、その間に王朝転向を含め大きな変遷があったと言う事。

その後も、中東エリアでは様々な民族が覇権を争いますが、BC1,500〜BC1,400年頃にインド・ユーロッパ語族のヒッタイト人が大帝国を築き、かなり広大な地域を征服。その背景には<鉄器の発明による強大な軍事力>がありました。しかし、強国ヒッタイトも度重なる内紛などで弱体化し、BC800年頃、中東エリアは再び多民族国家の分裂状態となります。

その中から、現在のイランを中心拠点としていたペルシャ人が次第に台頭。そして、BC550年にキュロス2世がペルシャ王国最初の首都パサルダガエ建設を開始したことは、既に<このシリーズ第2回>でも紹介した通り。このペルシャ帝国はアケメネス朝 or ハカーマニシュ朝とも呼ばれますが、これは王の家祖名によるもので、アケメネスが古いギリシャ語発音・ハカーマニシュが同ペルシャ語発音で同じもの。そのペルシャ王朝も内紛が絶えず、傍系のダイオレス3世の時代(BC330年)にマケドニアのアレクサンドロス大王との戦いに敗れ滅亡します。つまり、一時期北アフリカ〜西アジア~中東〜インドの手前まで版図を拡げたペルシャ帝国も、約220年でその歴史を閉じたと言う事。

3:ハムラビ法典

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<ハムラビ法典>が記された石柱・・・バビロンアルム人は<ハムラビ法典>によりバビロニアの支配力を強めようとした。

 

3:ヒッタイト戦車

 

 

 

 

 

 

ヒッタイトの戦車・・・ヒッタイトは鉄器の発明で強大な軍事力を持つようになった。

 

4:キュロス2世碑文

 

 

 

 

 

ペルシャ帝国最初の基盤を築いたキュロス2世の碑文。

 

3:アケメネス版図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アケメネス朝の勢力範囲