みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,037

「世界のガーデン」第五章:ギリシャ・ローマ時代の庭園

 

第19回古代ローマの庭園事情

 

ヨーロッパ文明に多大な影響を与えた、古代ギリシャ・ローマの庭園事情について検証中。前項で示した通り、ギリシャではクレタ島の庭園らしき痕跡・神殿に付随した植栽・果樹園などの存在は確認されていますが、明確に庭園と呼べる資料・遺跡等はまだ発見されていません(ただし、富裕層の個人邸宅に庭園らしきものが存在した可能性は高い)。では、古代ローマでは・・・

結論から言うと、古代ローマ(BC753〜AD476年)では<明らかに庭園と言えるもの>が造られていました。また、鑑賞のための園芸も急発達したとの事。具体的には、紀元前の段階でピンチョと呼ばれる丘には「ルクルス庭園」と言うものが存在し、ヨーロッパ中に広く紹介されていたとの事。ただこの庭は「ペルシャ式庭園」であったようで、ローマ独自の様式はこの段階では確立されていなかった模様。

その後、庭園は平和と安らぎの象徴・都市生活の疲れをいやす場所・宗教儀礼と繋がる場所などとして、より重要視されるようになります。

以上でもわかる通り、ローマ庭園の原点は明らかに「ペルシャ式庭園」。これに古代ギリシャで発達した園芸・植栽技術、古代エジプトの富裕層が家を飾るために使ったガーデニングの技術などが加わり、少しずつ独自の庭へと進化していったと伝えられています。また、マケドニアの「アレキサンダー大王」(在位BC336〜BC323年)は、周知のとおり中東を経てインダス川のほとりまで勢力を伸ばしますが、その時に収集した植物や園芸技術もローマ庭園に大きな影響を与えたとされています。

また、古代のローマ庭園には公共スペース用と住宅用に大別され、公共スペース用は公園・遊園地・墓地などと一体化されたものが多く、まだ現代のような公共庭園的なスペースではなく、公共の場の一部に植栽・休憩所などが配され、それを庭園と称していたのではないでしょうか?

一方、住宅用に関しては建物・塀などで囲われたパティオ形式が主体で、単に中庭があり植物等が植えられていたと言うだけではなく、かなり全体構成を考えた庭園と呼ぶにふさわしいものが存在していたようです。

その痕跡が最も良く保存され現代に当時の状況を明確に伝えてくれるのが、火山噴火で姿を消したポンペイ。発掘調査で、庶民の住宅にはスペースが限られ庭らしきものは殆ど存在しませんでしたが、富裕層の邸宅では、前述のようなパティオ式の庭園が複数見つかっています。また、それを再現した<画家の住居の庭><「ヴェッティ邸」の庭>などで、当時の様子を知ることが出来ます。

また、「フィシュボーンローマ宮殿」内の博物館にも、考古学資料を基にした庭園が再現(模型)されており、当時の宮殿にセットされた庭園構成だけでなく、発掘資料によりどのような植物が植えられていたかも知ることが出来ます。

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画家の家の庭園(ポンペイ・再現)

 

 

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「ヴェッティ邸」の庭園(ポンペイ・再現)

 

 

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「フィシュボーンローマ宮殿」の博物館が当時の庭園を再現した模型