みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,039

「世界のガーデン」第六章:「露壇式庭園」とその代表作品

 

第21回:「メディチ家の庭」と「ランテ荘」

 

「露壇式庭園」の登場はルネッサンスの頃からで、表現を変えれば同時代初期の庭を探れば当初の姿を知ることが出来ます。そして、ルネッサンス時代を代表する富裕者と言えば何と言っても「メディチ家」で、庭園もまた同家のものが元祖的存在。勿論、スケールもまた別格でした。ただし、その庭は現存せず、図画等により往時の姿を知るのみです。

同庭園は創始者:コジモ・デ・メディチの息子ジョヴァンニ・デ・メヂィチ(1421〜1463年)によってヴィラ(別荘)に付随する庭として築かれました。建設・作庭期間は1455〜1461年の約6年間とされています。ただし、他の農地に付随した平地のヴィラと異なり、フィレンツェの景色が一望出来る丘の中腹に造られました。<主要な別荘には素晴らしい眺望が必要>とする「アルベルティ」(前項・第20回参照)の庭園論を参考にしたためで、スケールの大きな庭園でありながら高台にありかつ傾斜を有効活用した設計になっていました。<元祖「露壇式庭園」>と言われる所以がそこにあります。なお、メヂィチ家の庭園プランに関しては第20回に掲載した画像を参照して下さい。

現存する「露壇式庭園」あるいはヴィラとしてもっとも著名なものの一つに「ランテ荘」があります。

「ランテ荘(ヴィラ)」はローマの北約90キロの位置にある都市・ヴィルテボの郊外にあり、ゼロからではなく廃墟となっていた建造物を活用し造られました。ヴィラと呼ばれる建造物は、元貴族が所有する狩りのための小屋を改装したものが多く、「ランテ荘」の場合も教会に所属した司教たちが狩りをするとき、雨宿り用として利用していた建物を活用。ただし、大改装を行いイタリアを代表するヴィラ・庭園として大変身を遂げました。

大改装の依頼者は、当時このエリアを統治していた枢機卿「ガンバーラ」で、建造期間は1560年代後半からで20年の歳月を要したとされています。設計者は「ヴィニョーラ」と言う人物で、彼は当時もっとも著名な建築・庭園設計家の一人でした。このような経緯と現存する「ランテ荘」を観ると、この頃教会と言うものが極めて大きな権力を持ち、かつ財を成していたかが分かります。同時に、ルネッサンス時代に富裕層がヴィラ(及びその庭園)を重要視し、そこでの暮らしにどれだけ憧れたかが推測できます。

「ランテ荘」は「露壇式庭園」と2棟の建造物で構成され、その特色としては、自然の地形を有効活用している(他のヴィラは地形自体に手を加えたものが多い)・植栽は樹木のみ(草花を使わない)・トピアリー(幾何学的な刈込を施した植栽)の多用・・・などを上げることが出来、現在もほぼその全てが保存されています。

このような環境下で生まれた「露壇式庭園」は、極めて高度作庭技術により創出されたものであるかが分かります。また、幾何学系の庭園で「ペルシャ式庭園」の影響を色濃く受け継ぎ、かつフランスで生まれた「平面幾何学式庭園」などに引き継がれて行きます。

21:ランテ景観

 

 

 

 

 

「ランテ荘」とその周辺の景観

 

21:ランテ荘

 

 

 

 

 

「ランテ荘」の全景

 

21:ランテ主要部

 

 

 

 

 

「ランテ荘」の主要部

 

21:ランテ・ペガサス噴水

 

 

 

 

 

 

ペガサス噴水