みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,040

「世界のガーデン」第六章:「露壇式庭園」とその代表作品

 

第22回:「エステ荘」と「ヴィラマダマ」

 

前回は「メディチ家の庭」と「ランテ荘」を紹介しましたが、勿論この他にも多くの「ヴィラ」(別荘)などがあり、「露壇式庭園」もイタリア中心に各所に造られました。しかし、資料が乏しい・「ヴィラ」や宮殿などの建物だけで庭園は無かったもの・当時は存在したが建物だけが残り庭園は保存されていないもの・・・などの事情で、紹介できる作品はかなり限られます。ただし、断片的であっても確認可能な現存「露壇式庭園」に関しては、出来るだけ取り上げていきます。この第22回は「エステ荘」と「ヴィラマダマ」をピックアップ。

「エステ荘」は前回紹介した「ランテ荘」と共に、最も有名な現存する「露壇式庭園」です。ローマの東約30㎞の位置にある街ティヴォリの丘陵地に造られたエステ家の別荘で、敷地は4.5ヘクタールに及ぶ広大なもので、特に噴水の見事さはイタリア随一との評価を持っています。

「エステ荘」の庭園は、オルガンを模した噴水・その他多くの噴水・子宝の神アルテミスを表したエリアなどが特に有名で、作曲家「フランツ・リスト」のピアノ曲のモデルになったとも伝えられています。

少しその歴史を追ってみると、元はベネティクト会の修道院をエステ家の一員であり枢機卿でもあった「イッポーリット2世」と言う人物が1,563年頃から大改装を始めたのがスタートとされています。ただ、改装はその後延々と続き、彼は1,573年に死去しますが、まだ完成には至っていなかったとの事。設計は「ピーロ・イーゴリット」(1,500〜1,583年)で彼は考古学にも精通しており、古代ローマ時代のデザインなども取り入れられた可能性があります。

その後、所有者が代わるなどの変遷を経ますが、大規模改修が繰返し行われ、1,600年代後半になっても進化し続けました。ただ、18世紀には「エステ荘」は放棄されてしまい、1,920〜1,930年の修復、1,941年(第二次世界大戦)の爆撃による破損などの苦難を超えた、イタリア史の象徴的建造物とも言えます。また、「ランテ荘」は自然の地形を活かしたのに対し、「エステ荘」は大掛かりな土木工事が行われ地形そのものにも手を加えられたとされています。

エステ所在地

 

 

 

 

 

 

「エステ荘」の所在地

 

エステ全景

 

 

 

 

 

「エステ荘」とその周辺の景観

 

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オルガン型の噴水

 

「ヴィラマダマ」はローマを見下ろすモンテマリオの斜面に造られた「ヴィラ」。1,516年から建造が始まり、レオ10世からジュリオ・デ・メディチ枢機卿へとバトンタッチされようやく完成に至ったと伝えられています。また、全体監修に関しては当時最も著名な芸術家であった「ラファエロ」が担当したとの事。従って、ルネサンス時代を代表する建造物であったことは間違いありません。ただ、庭園部分の資料が乏しく、入手できる画像も限られています。

ヴィラマダマ

 

 

 

 

 

「ヴィラマダマ」の全景