みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,052

「世界のガーデン」第七章:「平面幾何学式(フランス式)庭園」

 

第34回:「フォンテーヌブロー宮殿」とその庭園

 

引き続き「ル・ノートル作品を紹介。今回取り上げるのは「フォンテーヌブロー宮殿」とそこに併設された庭園です。ただ、同宮殿には2つの庭園があり、1つは「ル・ノートル」が作った庭、2つ目は「ナポレオン」が活躍していた時代に作られた庭です。

最初に、宮殿・庭園の歩みを知るため「フォンテーヌブロー」と言う街と「フォンテーヌブロー宮殿」の歴史について確認しておきます。

「フォンテーヌブロー」はパリ郊外に位置し、いわゆる「パリイル=ド=フランス(パリ地域圏)」内にあります。つまり、フランスの中心部でその歴史的に翻弄されてきた街であり建造物であったと言う事。そして、同エリアの変遷の主役となったのが「フォンテーヌブロー宮殿」でもありました。

「フォンテーヌブロー宮殿」は、フランス最大級の規模を誇り、街を守る城としての役割も果たしていました。そのベースを築いたのは<ルネッサンス時代を代表する王>とも言われる「フランソワ1世」(在位1,515~1,547年)で、「マニエリスム様式」の象徴的建造物とも呼ばれています。

「マニエリスム」には「ルネッサンス時代」後半に生まれたもので、<自然を超越した芸術手法>と言った表現も使われ、圧倒的なパワーを内包した美意識がその背景にあります。従って、ルネッサンスの中心地は言うまでもなくイタリアですが、パリ近郊に作られたこの宮殿も、その芸術性に憧れ建造されたと考えて良いでしょう。

ただ「マニエリスム」の影響を色濃く受けながらも、その後フランス特有の要素が加わり少しずつ変化し現在に至った宮殿とも言えます。フランスの絶頂期とも言える「ブルボン王朝」。その象徴的人物「フィリップ4世」「アンリ3世」「ルイ13世」などもこの宮殿で育ち、時を経る間に少しずつフランス化して行ったと言う事。当然のことながら「ルイ14世」との繋がりも非常に強い宮殿でもあります。

そして、16世紀後半には「ルネッサンス庭園」と呼ばれる庭が作られ、その時初めて<幾何学模様の花壇>が登場したとされています。さらに、「ルイ14世」と関係が深い「ル・ノートル」がその庭園に手を加え、<ヨーロッパで最も広い花壇を持つ庭園>となったと伝えられています。また、同宮殿と庭に水を引き入れるため巨大な運河も作られ、権力を象徴するエピソードとなったばかりか、現在もその景観は運河無しでは語れないものとなっています。

その後、「フォンテーヌブロー宮殿」は幾多の変遷を経て、ご多分に漏れず「フランス革命」(1,789~1,799年)により荒廃します。しかし幸か不幸か、あの「ナポレオン・ボナパルト」(在位11,804~1,815年)が自己の権威の象徴としてこの宮殿を復活させます。そしてこの時、「英国式庭園」と呼ばれる庭が作られ、現在の<2つの庭を持つ宮殿>となります。

「英国式庭園」は、宮殿本体や「ルネッサンス式庭園」とは異なり、非常にシンプルな構成となっています。また、中央には「ディアン」と呼ばれる噴水があるため、「ディアンの庭園」とも呼ばれています。

今回は、「フォンテーヌブロー宮殿」の庭を「ル・ノートル」作品の1つとして紹介。ただし、他の作品同様、<長い歴史と変遷の中の重要な一幕として彼がかかわった>と表現すべきでしょう。

中庭

 

 

 

 

「フォンテーヌブロー宮殿」と「ルネッサンス庭園」のパノラマ写真

シンボルアーク

 

 

 

 

 

「フォンテーヌブロー」のエンブレム

 

フランソワ1世

 

 

 

 

 

 

 

「フランソワ1世」

 

フォンテーヌブロー宮殿

 

 

 

 

 

運河から見た「フォンテーヌブロー宮殿」全景

 

英国庭園

 

 

 

 

 

「英国式庭園」・・・中央の「ディアン噴水」にちなみ「ディアン庭園」とも呼ばれる

 

東屋

 

 

 

 

 

「英国式庭園庭」内にある東屋

 

現在

 

 

 

 

憩いの場ともなっている花壇エリア

 

マニエリスム

 

 

 

 

 

 

「マニエリスム」の象徴とも言われる絵画・・・写実主義とはかなり表現方法が異なる。