みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,055

「世界のガーデン」第七章:「平面幾何学式(フランス式)庭園」

 

第37回:「マルリー宮殿」とその庭園

 

「平面幾何学式(フランス式)庭園」を紹介中。今回は「マルリー宮殿」とその庭園を取り上げます。ただし、宮殿・庭園とも現存せず、資料として残された絵画で存在していた当時の姿を類推する以外にありません。

「マルリー宮殿」は、イル=ド=フランス圏(パリを中心としたエリア)にあり、パリの西約15㎞・「ヴェルサイユ宮殿」の北約10㎞に位置するイヴリーヌ県のコンミューンにありました。この街は北半分が都市・南半分がマルリーと呼ばれる森に覆われており、その森の名をとって「マルリー宮殿」と名付けられたとの事。

マルリー・コミューンと「マルリー宮殿」の歴史を辿ると、同地の領主「モンモランシー家」が建築したものですが、1,676年に「ルイ14世」が買い上げ宮殿となりました。当然、宮殿としての規模・豪華絢爛さと言った面では「ヴェルサイユ宮殿」の方がはるかに上であったわけですが、<皮肉なことに気楽にくつろぐことが出来る「マルリー宮殿」を好む王族が多かった>と言った事も伝えられており、サブ的存在でしたが、かなり重要な役割を果たしていたようです。

また、「マルリー庭園」は池・水路・噴水などをふんだんに配した<水の庭園>でもありました。しかし、宮殿(庭園)はクール=ヴォランと言う丘にあったため、水源となるセーヌ川から大量の水を汲み上げるための大規模な「マルリーの機械」と「水道橋」が設置されこれが大きな特色でもありました。その、「マルリーの機械」を描いた絵画が現存(画像参照)しており、改めてルイ家の財力を痛感させられます。

なお、「マルリーの機械」は直径12m弱の水車14機と200にも及ぶポンプで構成され、一度154m高さまで大量の水を汲み上げ、さらに「マルリー宮殿」と「ヴェルサイユ宮殿」に8㎞に及ぶ水道橋で水を運んでいました。

「マルリー宮殿」の設計・建設者は「ジュール・アルドゥアン=マンサール」(1,646~1,708年)。「ルイ14世」と関係の深い建築家で、「マルリー宮殿」以外にも、「サン=ジェルマン=アン=レー」の拡張工事を皮切りに、「モンテスマン侯爵夫人」(「ルイ14世」の愛人)の城など数多くの作品を残しています。「ヴェルサイユ宮殿」建設にも携わりましたが、この時は「ル・ヴォー」が主役でサブ的な立場であったとの事。

また、「ルイ15世」時代には彫刻家「ギヨーム・クストゥー」作の「マルリーの馬」が設置されましたが、その後数奇な運命を辿り、現在は「ルーブル美術館」にあります。

「マルリー宮殿」とその周辺の街は、「ルイ14世」「ルイ15世」の時代を経た後、「フランス革命」(1,789年)の革命家達の略奪に合い荒廃します。1,799年にはアレクサンドル・サニールと言う実業家が購入し紡績工場となりますが同工場も破産。その後は購入者が見つからず、解体され建築石材として使われるなど、崩壊を止める事が出来ませんでした。そして、現在その不動産は林業管理局の管理下にあります。

マルリー=ル=ロワ 庭園

 

 

 

 

 

 

 

 

 

絵画「マルリー庭園」(1,724年)・・・水をふんだんに使った「平面幾何学式庭園」だが、その水は巨大な機械でセーヌ川から汲み上げられた。

 

 

La Machine de Marly par Pierre-Denis Martin, 1723.

La Machine de Marly par Pierre-Denis Martin, 1723.

 

 

 

 

 

 

 

「マルリーの機械」・・・巨大な水をくみ上げるための装置

 

マルリーの馬

 

 

 

 

 

 

 

数奇な運命を辿った彫刻「マルリーの馬」・・・現在は「ルーブル美術館」が所蔵

 

 

マルリー=ル=ロワ の紋章

 

 

 

 

 

 

 

マルリー・コミューンの紋章

 

 

ジュール・アルドゥアン=マンサール

 

 

 

 

 

 

 

「マルリー宮殿」の設計・建築者「ジュール・アルドゥアン=マンサール」