みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,059

「世界のガーデン」第七章:「平面幾何学式(フランス式)庭園」

 

第41回:「シュノンソー城」と2つの庭園①

 

「平面幾何学式(フランス式)庭園」。今回は、「ロワール渓谷」にある「シュノンソー城」を取り上げます。

これまでも何度か登場した「ロワール渓谷」。フランスを代表する歴史・文化エリアで、そこに位置する「シュノンソー城」もまた、様々な過去の重要舞台に登場してきました。従って、まずその生い立ちを簡潔に確認しておきます。

同城は最初「ジャン・マルク」と言う貴族の邸宅(城としての役割も果たしていた)でした。ただし、反逆扇動罪に問われ、一度国軍に焼かれてしまいます。彼はその後許されたのか、1,430年代に同城を再建。しかし、相続人「ピエール・マルク」が借金返済のため「シャルル8世」の従事者「トマ・ボイエ」に売却し、1,515~1,521年に建て替えられ、それが現在の「シュノンソー城」の原型となりました。

しかし、「トマ・ボイエ」一族も同城を維持できず、「フランソワ1世」の時代に国へ献納され、その後は王族の所有物となります。さらに、「アンリ2世」(在位1,519~1,559)時代には彼の愛人「ディアーヌ・ド・ポワチエ」に贈り物として与え、彼女が主に。この時に、「シュノンソー城」の代表的建造物となっているアーチ橋を「シェール川」に架け城と対岸を結びます。庭園に関しても、菜園・果樹園を新たに加えこれが「ディアーヌの庭」(第42回で紹介)として現代にまで伝わりました。この他、川の氾濫防止のためのテラスなどを追加するなど、城の将来に対しても重要な役割を果たします。

しかし、庇護者である「アンリ2世」が1,559年に没すると、彼の妻であり皇太后となった「カトリーヌ・ド・メディシス」との話し合いにより、「シュノンソー城」を明け渡し「ショーモン城」へ引っ越します。この時のいきさつに関して、<無理やり城を追われた><新しい住まいとなった「ショーモン城」は十分な領地をもっており、話し合いによる引っ越しであった>など、複数の説が残されています。

新しい城の主となった「カトリーヌ・ド・メディシス」皇太后も「シュノンソー城」にはかなりの愛着を持っていたようで、新たな庭を作庭。これもまた「カトリーヌの庭」(第42回で紹介)として現代にまで伝わり、「ディアーヌの庭」と共に多くの観光客等の憩いの場となっています。

その後も、「シュノンソー城」は様々な変遷を経て、フランス革命(1,789~1,799年)当時は大地主の「クロード・ディパン」と言う人物の所有となり、むしろ革命側に便宜を図ったため、破壊行為から逃れることが出来ました。また、第二次大戦下では「シェール川」を挟みナチス軍とフランス軍が対峙しますが、同城がフランス軍の脱出拠点となり注目を浴びました。

さらに、1,940年には川が氾濫し大きな被害が出ましたが、1,951年には全面修復。現在は城・庭園共に一般公開され、フランスでは「ベルサイユ宮殿」次ぐ賑わいを見せるようになっています。

41:シュノンソー城

 

 

 

 

 

 

「シュノンソー城」(アーチ橋側より)

41:アンリ2世

 

 

 

 

 

 

 

「アンリ2世」肖像画:フランス王

 

41:ディアーヌ

 

 

 

 

 

 

 

「ディアーヌ・ド・ポワチエ」:「アンリ2世」の愛人で「シュノンソー城」に大きな足跡を残した。

41:アーチ橋

 

 

 

 

 

 

「シェール川」に架かるアーチ橋。このアーチ橋も「ディアーヌ・ド・ポワチエ」が造った。

41:カトリーヌ

 

 

 

 

 

 

 

「カトリーヌ・ド・メディシス」:「アンリ2世」の妻。のちの皇太后。「アンリ2世」没後「ディアーヌ・ド・ポワチエ」の確執も伝えられるが異説も・・・