みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,066

「世界のガーデン」第七章:「平面幾何学式(フランス式)庭園」

 

第49回:「カールスルーエ宮殿」とその庭園

 

ドイツにある「平面幾何学式庭園」。最後に「カールスルーエ宮殿」とそこに併設された庭園を紹介します。

「カールスルーエ宮殿」は、ドイツ南西部のバーデン=ヴェルテンヴェルク州の街「カールスルーエ」にあります。ただ、この街にあるための命名と言うよりは、「カールスルーエ宮殿」が出来た事によりこの街もまた誕生したと言う経緯があり、日本の城下町のような都市と言うべきです。補足するなら、「カールスルーエ」の人口は約30万人で、州都「シュットガルト」に続き、「マンハイム」共に第二規模の都市でもあります。

「カールスルーエ」の「カール」は18世紀に同地を統治していた貴族「カール家」の名前から来ており、「エール」と言うのは休憩所の意味。従って、<カール家の人々が住んでいて所>と言ったイメージでしょうか?

街と宮殿は「カール3世ヴィルヘルム」が築いた城が元となっています。しかし、「大同盟戦争」と呼ばれる戦いでフランス軍が街と同城を破壊。その後、1,709年に「カール3世ヴィルヘルム」が、元の場所から5キロほど西に場所を移し、現在地に城の再建を開始し、1,715年に基本部分が完成、それが現「カールスルーエ宮殿」です。

つまり、「カールスルーエ」は城を中心にし計画的に造られた街だと言う事。具体的には、宮殿から放射状に主要道路が広がっておりドイツを代表する<二大バロック都市>と呼ばれています(もう1つの都市は同じバーデン=ヴェルテンヴェルク州の「マンハイム」)。

「カールスルーエ」を生み出した「カール3世ヴィルヘルム」(1,679~1,738年)は、神聖ローマ帝国が派遣した同地の統治者(「バーデン=ドゥルハラハ辺境伯」)でその在位は1,709~1,738年。従って、着任と同時(30歳)城(宮殿)を再建し始め、6年後に正式に「カールスルーエ」に移り住んだと言う事になります。なお、彼の後を継いだ孫の「カール・フリードリヒ」も街と同家の繁栄に貢献し、この間に都市の歴史・骨格が固まりました。

それほど「カール家」の人々は、街にとっても重要人物であったわけで、中心部の「マルクト広場」にはモニュメント的なピラミッドがありますが、「カール3世ヴィルヘルム」は今もその地下に眠っています。

なお、「カールスルーエ宮殿」は「ベルサイユ宮殿」を見本として建造されたとも言われており、壮麗な建物と庭園は歴史的建造物としても高く評価されています。その象徴となる中心部の八角形の塔と周りは、現在は州立博物館となっており一般公開。今も、文化・観光の代表エリアとなっています。

カールスルーエ宮殿

 

 

 

 

 

 

 

 

「カールスルーエ宮殿」全景・・・中心部・八角形の塔が特徴(現在は州立博物館)

 

鳥瞰図(1721年)

 

 

 

 

 

 

宮殿の鳥瞰図(1,721年作成)

 

ピラミッド

 

 

 

 

 

 

「マルクト広場」のピラミッド・・・この下に「カール3世ヴィルヘルム」が今も眠っている

 

Markgraf Karl Wilhelm von Baden-Durlach Halbstück in Herrscherpose Weitere Zuordnung unbekannt Laut LMZ Stadtgeschichtliche Sammlungen KA

Markgraf Karl Wilhelm von Baden-Durlach
Halbstück in Herrscherpose
Weitere Zuordnung unbekannt
Laut LMZ Stadtgeschichtliche Sammlungen KA

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「カール3世ヴィルヘルム」の肖像画

 

紋章

 

 

 

 

 

 

 

 

「カールスルーエ」の紋章

 

地図(位置)

 

 

 

 

 

 

 

バーデン=ヴェルテンヴェルク州と「カールスルーエ」の位置