自作 目隠し。

カーポートを希望され ご来店くださった O様ご夫婦。

お庭の一角に 「1階が駐車場で 2階に部屋があった」建物を

最近 取り壊したので そこに 2台用のカーポートを 取り付けたい。

との ご要望で 現調に 伺いました。

お隣との 目隠しにと 基礎の1部分が残っているところを利用して

ご自分で トタンを立てられたとのこと。

スペースは充分あるので 取り付け可能です。

あとは O様が お値段との検討だそうです。

ご連絡 お待ちしています。

りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO1,628

 

「世界のガーデン、日本のガーデン 編」・・・北山文化・金閣寺、そして庭園!

前項で触れたとおり、鎌倉・北条の時代を経て、足利氏の世(室町時代)となり、武家文化にも新しい局面が生まれました。最大の理由は、政治の場を鎌倉から再び京都に移したことでしょう。そして、武家文化と公家文化の新たの融合が生まれます。その文化に最大の影響を及ぼしたのが三代将軍・足利義満。同文化を北山文化と呼びますが、そのメッカとなったのが北山山荘で、部分的に引き継いだのが現在の「金閣寺」です。

「金閣寺」は京都府北区にある、臨済宗相国寺派の寺院で、正式名は「鹿苑寺(ろくおんじ)」「金閣寺」と通称されるのは、周知の通り、舎利殿(「お釈迦様の骨が納められている建物」と言う意味)に金箔が貼られ金色であるため。まず、簡単にその歴史を振り返っておきます。

「金閣寺」の基となったのは、藤原公経(西園寺公経)が造った「西園寺」(1224年創建)で、その周辺を含め北山第と呼ばれました。その後、1397年に足利義満が規模を拡大し北山山荘とし、この地に移り住みます。1394年に義満は征夷大将軍職を子供の義持に譲っていましたが、実権は引き続き握っており、北山山荘が政治の中枢でもありました。

当時の北山山荘は現在よりはるかに膨大なものでしたが、その「舎利殿(金閣)」と庭園部分だけが残ったものが「金閣寺」です。その後応仁の乱で焼失するなど、数奇な運命を辿ります。1950年にも僧侶の放火により焼失。その模様は三島由紀夫の「金閣寺」、水上勉の「五番中夕霧楼」と言う著名な小説にもなり、様々な形で語り継がれています。そして、1955年に巨費を投じて再建されたのが現在の「金閣寺」です。

「金閣寺」と言えば金色の「舎利殿」に注目が集まりがちですが、庭園も極めて重要な存在です。その理由は、北山文化の最高水準の庭園である、庭園文化そのものが1つの頂点を迎えた時代である・・・と言う2点によります。つまり「日本庭園」の1つの頂点とも言える作品であるということです。

もう少し「金閣寺」の庭園について述べておきます。まずその存在は「池泉回遊式」と言う「日本庭園」様式の最高峰に位置すると言うこと。この庭は、「舎利殿」と言う建造物を核として、池を望み、楼閣からは全景が俯瞰出来ると言う、斬新な全体構成となっています。それだけではなく、瀧門瀑、広大な池の中に造られた西方浄土、回遊式特有の各所の絶景、借景との融合、など多数の魅力を持っています。

では、「金閣寺」に代表され、極致ともいえる「日本庭園」を生み出した北山文化とはどのようなもので、当時はどのような時代であったのでしょうか? 次項ではその真相に迫って見たいと思います。

そこで本日のひと口アドバイス。

池泉回遊式庭園の最高峰でもある金閣寺! 全景と部分的構成の見事な融合!」

(りょう)

 

 

 

 

 

「金閣寺」:遠景

 

 

 

 

「金閣寺」:1950年焼失前&焼失後

 

 

 

 

 

 

「金閣寺」:夕桂亭と南天柱

 

 

 

「金閣寺」:安民沢と白蛇の塚

年間投稿MVP!!

昨日のブログで 一番 報告したかったことを

焼き芋につられて うっかりしていました・・・(^-^;)

eggの「庭語り どっとこむ」の投稿で

 

www.niwagatari.com

投稿年間MVPをいただきました!!

賞状と グループの提携協賛社の「木匠」さんが

レッドウッドで造ってくださった 盾をいただきました。

盾は 彫りになっていて ただ お店に飾っておくだけでは

もったいないほどですが

持って歩くわけにも いかないので

きちんと お店に置いておきます。

現場の話より くだらない私の話がやや多かったと思われる投稿ですが

「なんでも いいから できるだけ たくさん投稿するように!!」との

店長からのお達しを クリアーできたのかと ホッとしているのと

思いがけず こんな すばらしい 盾までいただくるとは

思っていなかったので とっても うれしいです。

また 今季も頑張りたいと思います。 

ご来店の際は よぉ~く 見て行ってください。(^-^)

ありがとうございました。

進行中 ~大阪府枚方市外構リフォーム~

連休が始まりましたね。いかがお過ごしですか。ライフアップは元気に営業中です。明後日は現場見学会。まだ受付大丈夫ですので興味をお持ちの方はぜひお問合せフォームよりお申し込み下さい。

さて、枚方市外構リフォームですが、最終段階に差し掛かってまいりました。

 

 港製器工業のウッドフェンス用支柱(ブロック用)にウリン材を取付けてウッドフェンスが完成。

 

ウリン材で作った縁台も完成です。

自転車やバイクを入れるためのスロープと、アンティークレンガの階段も完成!

 

こちらでは塗り壁の門柱の仕上げ中です。

あと少しで完成!雨で工程が延びてしまいご迷惑をおかけしましたがもうまもなく工事終了です!

りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO1,627

 

「世界のガーデン、日本のガーデン 編」・・・武家社会と「日本庭園」の変化?

「日本庭園」の流れを追っています。これまでに提示した「平安時代」までの経緯を簡単に整理しておきましょう。古墳時代頃に、水利と併用した、庭園の基となるような景観・祭礼スペースが造られた。飛鳥時代に入ると、飛鳥京を中心に隋・唐の模倣的な庭園が造られ「日本庭園」の原点となった。奈良時代~平安時代初期にはより大型化された隋・唐式庭園が造られるようになった。さらに、皇族・上級貴族が「寝殿造」の住居を造るのと並行し、同様式の庭園が造られるようになった。またそれが「日本庭園」と呼ぶに相応しい様式確立の第一歩となった。さらに、平安時代後期~鎌倉時代になると、末法思想、そこからの救いを求めた浄土信仰の影響で「浄土式庭園」が多数造られるようになった。ざっと、こんなところです。

この項からは、鎌倉時代以降の「日本庭園」の流れを追いかけます。

鎌倉時代とは、平安貴族の時代、貴族~武士の時代への移行期となった平家の台頭期を経て、源頼朝が武家社会を作り出した、動乱期直後でもありました。その間に多く血が流れたことは言うまでもありません。その影響が大きかったのでしょう。引き続き「浄土式庭園」が主流となりました。

その代表が、源頼朝が鎌倉に造った「永福寺」(最も「永福寺」とは仏教寺院の総称的な意味もあり、全国に多数存在する)と言われています。自らが死に追いやった、藤原泰衡、弟源義経、他多くの人々に対する供養のため造ったものですが、今は寺跡が残っているだけで、当時の姿を留めるものはありません。

その後、源氏・北条と続いた初期の武家社会滅び、足利氏の世(室町時代:1336年~)となります。都も鎌倉から再び京都へと移ります。同時に、より洗練された武家文化が生まれ、庭園にも大きな影響を及ぼします。

その核となったのが、「北山第」と言われるエリアから生まれた文化・芸術様式(北山文化)です。「北山第」とはその名が示すとおり京都市北区に位置する、北山に近いエリアのことです。そして、この地を屈指の文化ゾーンとしたのは、藤原公経(西園寺公経)で、膨大な資金を投じて、「西園寺」とその庭園(後に、西園寺公経は後醍醐天皇暗殺の容疑で逮捕・処刑。用地没収)を造り、それが北山文化の原点ともなります。

その跡地に足利義満が、さらに規模を拡大し、応永4年(1397年)「北山山荘」を造り移り住みます。その規模は御所に匹敵するとも言われ、あらゆる贅が尽くされたとのこと。それを引き継いだのが現在の「金閣寺(鹿苑寺)」です。ただし、当時の北山山荘は現在よりはるかに膨大な規模で、舎利殿以外は後に解体され、南禅寺、建仁寺等に寄贈されました。

従って、室町時代の文化を語るとき、北山山荘をはずすことは出来ません。「日本庭園」も同様で、次項では「金閣寺」をベースに、当時の庭園とその文化とは何かを探ってみたいと思います。

そこで本日のひと口アドバイス。

「弔いの浄土式庭園~華麗なる武家文化へ! その核となった足利義満&北山山荘!」

(りょう)

 

 

 

 

「金閣寺(鹿苑寺)」:舎利殿

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「足利義満」

 

 

 

 

 

 

焼失前の「金閣寺」

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