みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,074

「世界のガーデン」第七章:「平面幾何学式(フランス式)庭園」

 

第57回:伊国の「ガゼルタ宮殿」&庭園

 

今回が「平面幾何学式(フランス式)庭園」の最終回。登場するのはイタリアの「ガゼルタ宮殿」とその庭園。そして、トリ(最後)にふさわしい作品でもあります。

「ガゼルタ宮殿」はその名が示す通り、イタリアのカンパニア州(地図参照)の都市「ガゼルタ」(カンパニア州の北西部・人口8万人弱)にあります。

少し歴史を辿ると、ブルボン王朝系で13~18世紀まで続いた「ナポリ王国」終盤の王「カルロス7世」(在位1,735~1,759年)により建造されました。ただし、彼はスペイン王(カルロス3世・在位1,716~1,788年)兼務、と言うより<スペイン王時代の一定時期に「ナポリ国王」を兼ねていた>と言うべきで、<スペイン王「カルロス3世」により造られた>と記された資料も少なくありません。

いずれにせよ、「ガゼルタ宮殿」は1,752年に建設工事がスタートし、完成したのは三男の「フェルナンド4世」(在位1,751~1,825年)の治世になってからとされており、少なくとも完成までに20年近くの歳月を要しています。それだけ巨大な宮殿で<18世紀のヨーロッパ最大の建造物>とも称されています。

また、「ナポリ王国」は前述のようにブルボン王朝の流れを汲む国で、ある意味当然の事ながら「ベルサイユ宮殿」をモデルにしたと伝えられています。従って、バロック風のどっしりとした建物となっており、私邸とも言える宮殿と公邸とも言える官公庁がその中にセットで入っており、宮殿建設の動機自体も<王国支配のための壮麗な首都建設>で、文字通り「ナポリ国」統治のための最大拠点でもありました。

また、スケールの大きさだけではなく、同宮殿内には巨大な図書館・劇場なども作られ、さらには中央の八角形の玄関・階段等はヨーロッパ屈指のデザイン・技術・文化が集約されたものとして高く評価されています。

宮殿全体は、247×184mの長方形。その四方は2つの直角に伸びた腕のような建物で繋がれ、それらに囲まれた各々3,800㎡以上の中庭が4つ作られています。その様式・スケールは再記するまでもなく「ベルサイユ宮殿」を強く意識したものです。

庭園も<最大級の「平面幾何学式」の一つ>とされていますが、それもまた納得・・・

庭は現在は公園として開放されています。その様式はバロックを意識した巨大な「平面幾何学式(フランス式)庭園」で、面積は120ヘクタールに及びます。しかも、「ベルサイユ宮殿」は平地に作られましたが、「ガゼルタ宮殿」の庭は丘陵地で傾斜を有効活用しています。従って、<その美しさはベルサイユ以上>と言った評価も!

メインの庭園は宮殿の後方ファサードからスタートした左右対称と言う基本構成。その中に、巨大な水路・池・噴水・通路などが配され、特に著名芸術家による彫刻で有名な「ティアナとアクタイオンの噴水」、1,770~1,780年作とされる「アフロディアとアドニスの噴水」、1,773~1,780年作とされる「イルカの噴水」、それに「アイオロスの噴水」「セレスの噴水」(以上の噴水の殆どはギリシャ神話にちなんだもの)など見どころの多い、世界屈指の水の庭園でもあります。

最も、現在の庭園は「風景式(イギリス式)庭園」なども追加され、世界中の人々に愛される屈指の欧風庭園と言った方が適切化も・・・

庭園と宮殿

 

 

 

 

 

 

 

 

全景・・・メイン庭園は丘陵地に造られ、「ベルサイユ宮殿」に匹敵するスケールと、それを超える美しさがあると言う評価も!

 

人工滝&アクタイオン像

 

 

 

 

 

 

 

人工の滝とアクタイオン像

 

宮殿内の階段

 

 

 

 

 

 

 

 

宮殿入り口付近の階段

 

 

カルロス3世

 

 

 

 

 

 

 

 

宮殿の造営者ナポリ国王「カルロス7世」・・・スペイン王「カルロス3世」と同一人物

 

 

カンパニア州

 

 

 

 

 

 

 

 

カンパニア州の位置

 

 

カンパニア州の紋章

 

 

 

 

 

 

 

 

カンパニア州の紋章

 

 

ナポリ王国の国章

 

 

 

 

 

 

 

 

「ナポリ王国」の紋章

 

 

 

「平面幾何学式(フランス式)庭園」コーナーの最後に・・・

前述のごとく。本稿を持って「平面幾何学式(フランス式)庭園」の紹介を終えます。出来るだけ漏れがないように取り上げたつもりですが、それでも資料不足で紹介不可能な作品も多数あります。従って、最後に一定の知名度がありながら取り上げることが出来なかった作品を列記しておきます。

「シェライスハイム城」と庭園(ドイツ)

「ビルニツ宮殿」と庭園(ドイツ)

「ファヴォリーテ宮殿」と庭園(ドイツ)

「シェロスホーフ城」と庭園(オーストリア)

「ヘット・ロー宮殿」と庭園(オランダ)

「ハームステッド宮殿」と庭園(オランダ)

「バドミントン宮殿」と庭園(イギリス)

「ペテルゴフ宮殿」と庭園(ロシア)

「オスタンキーノ宮殿」と庭園(ロシア)

「ケルス宮殿」と庭園(ポルトガル・写真参照)

「ドロットニングホルム宮殿」と庭園(スウェーデン・写真参照)

等々

ケルス宮殿

 

 

 

 

 

 

「ケルス宮殿」

 

ドロットニングホルム宮殿

 

 

 

 

 

 

「ドロットニングホルム宮殿」

 

みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,073

「世界のガーデン」第七章:「平面幾何学式(フランス式)庭園」

 

第56回:「ラ・グランハ宮殿」と庭園

 

「平面幾何学式(フランス式)庭園」を紹介中。今回はスペインの「ラ・グランハ宮殿」とその庭園を取り上げます。

「ラ・グランハ宮殿」は、首都マドリードの北約80キロに位置する、カスティーリヤ・イ・レオン州ゼゴビア県にあり、バロック様式の代表的建造物として知られています。宮殿及び庭園を造ったのは「フェリペ5世」。と言っても、これだけで当時の概要と彼の人物像が分かるのは余程のヨーロッパ通。そこで、簡単な説明から。

「ラ・グランハ宮殿」が建造された場所は、グアダラーマ山脈北側の丘陵地帯。この地の利を生かし、当時の有力者の狩猟地となっていました。そんな事情からか、15世紀にはエンリケ4世が教会を建てたのが始まりとされています。

その後夏の離宮が焼失したこともあり、1,719年に協会を「フェリペ5世」が買い上げ、新たに宮殿を建造。これが現在の「ラ・グランハ宮殿」と庭園の元となりました。でも、スペインなのになぜ「平面幾何学式(フランス式)庭園」なのか? その答えは、「フェリペ5世」の生い立ちにあります。

彼は、あの「ルイ14世」とスペイン・ハクスブルク家出身の王妃「マリー・テレーズ」の間に生まれた長男で、生まれたのも「ベルサイユ宮殿」であったため。従って、「ラ・グランハ宮殿」と庭園も、多くを「ベルサイユ宮殿」を真似たとの事。

具体的には、宮殿自体をコの字型にして、三方を建物に囲まれたエリアを作った。この部分から庭園をスタートさせ、軸線を基本とした明確な左右対称型の幾何学式庭園にした・・・と言った指示記録が残っています。その後、継承者の事情・1,918年の火災などで、かなりの変遷はありましたが、「フェリペ5世」時代と決定的な相違はなく、当時の様相を色濃くとどめた貴重な建造物としてその姿を現代にまで伝えています。

本題の庭園は約1,500エーカーと言う広大なもので、18世紀のヨーロッパの見本的な存在だとされています。設計者は「ロベール・デ・コット」と「レネ・カルリエ」の2名で、共にフランスから招かれています。この点をみても<フランス式>にこだわったことは明らかです。

ただ、丘陵地帯と言う地形が活かされているため、「ベルサイユ宮殿」と比較するとかなり段差の大きな庭となっています。従って、イタリアの「露壇式庭園」と似た部分もあり、これがより庭のロケーションを素晴らしいものとしています。

また、スペインと言う土地柄・バロック様式と言った影響もあり、庭園内にはかなり手の込んだ噴水やそれを飾る彫刻物が配されており、その全てがギリシャ神話と関係する物で、古典的思考が強い空間となっています。なお、現在は毎日数カ所の噴水だけを稼働させていますが、「聖フェルナンド」と「聖ルカ」の聖名祝日の2日だけは全噴水が稼働するとの事。

スペイン継承戦争

庭園の中心部と宮殿

 

庭園

 

 

 

 

 

 

 

庭園

 

Segovia

 

 

 

 

 

 

ギリシャ神話を題材とした彫刻

 

入り口付近

 

 

 

 

 

 

宮殿の入り口付近

 

内側正面

 

 

 

 

 

 

コの字型になったになった宮殿

 

フェリペ5世

 

 

 

 

 

 

 

 

「フェリペ5世」の肖像画

 

ゼゴビア県

 

 

 

 

 

 

ゼゴビア県の位置

 

ゼゴビア県の紋章

 

 

 

 

 

 

 

 

ゼゴビア県の紋章

 

みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,072

「世界のガーデン」第七章:「平面幾何学式(フランス式)庭園」

 

第55回:「ツァールスコエ・セロー」とは?

 

今回はロシアにある離宮とその庭園の登場。古都サンクトペテルブルクの中心部から南方約24キロに位置する歴史地区を「ツァールスコエ・セロー」と呼んでおり、その主要建造物に「エカテリーナ宮殿」と「アレクサンドロス宮殿」と言う2つの避暑用の離宮があります。勿論今回はこの2離宮とその庭が対象。ただ、複数資料のつなぎ合わせとなり、全体像の把握はかなり困難。従って、建物と庭園画像の位置関係等に関しては未提示となります。ご了承を。

「エカテリーナ宮殿」とは、当然の事ながら「ピョートル1世」(在位1,682~1,725年)の妻「エカテリーナ1世」(1,684~1,727年・後に女帝となる:在位1,725~1,727年)にちなんだ名称。ただ、この宮殿は元はスウェーデン貴族が建造したもの。ちなみに、「ツァールスコエ・セロー」と言う名称も元はフィンランド語であったものをロシア語に置き換えた発音だとされています。

いずれにせよ、「ピョートル1世」が1,708年に妻「エカテリーナ1世」に、同屋敷を送った事が直接の歴史スタートとなります。一時放置されるなどの紆余教説があった後、「ツァールスコエ・セロー」を住まいとするため、娘の「エリザベータ」と増改築するなど整備を進め、それが現代の姿の原型となりました。

庭園に関しては、「平面幾何学式(フランス式)」と「風景式(イギリス式)」が混在していますが、前述した通り、どの部分がどの位置に匹敵するのか、断片的な資料では良く分からないと言うのが実情。従って、下記提示の庭園画像も順序等は無関係。

「ツァールスコエ・セロー」内には、もう1つ極めて重要な宮殿があります。それが「アレクサンドロフスキー宮殿」。この建造物の直接の造営者は「エカテリーナ2世」(1,762~1,796年)で孫の「アレクサンドル1世」の結婚に伴い、彼等の住まいとして1,792年から4年の歳月をかけ建造されました。しかし、夫妻は「エカテリーナ宮殿」に居を移したため、その後はロマノフ家(ロシア・ロマノフ王朝の王家)夏の離宮となり現在に至っています。

「アレクサンドロフスキー宮殿」は新古典主義を代表する建造物と言われていると同時に、建設中に水脈とぶつかると言うアクシデントがあり、地下の半円形のホールと水脈を結び水路として残しました。そして、これが魅力の一つとなり、現在も人気の観光スポットとなっているとの事。

また、現在は前出の「エカテリーナ宮殿」「アレクサンドロス宮殿」とその他の「ガッチナ宮殿」「パブロフスク宮殿」なども含め博物館として整備され、古都サンクトペテルブルクの観光スポットと言うだけではなく、「ニコライ2世」(ロマノフ王朝最後の皇帝、在位1,894~1,917年・銃殺)等の重要な研究拠点にもなっています。

エカテリーナ宮殿北と庭園

 

 

 

 

 

 

 

 

「エカテリーナ宮殿」南面と庭園

 

エカテリーナ庭園②

 

 

 

 

 

 

「エカテリーナ宮殿」の庭園

 

エカテリーナ宮殿南遠景

 

 

 

 

 

 

「エカテリーナ宮殿」北面遠景

 

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

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「エカテリーナ宮殿」北面入口

 

 

エカテリーナ宮殿の風景

 

 

 

 

 

 

「エカテリーナ宮殿」水彩画(1.855年)

 

エカテリーナ宮殿・琥珀の間

 

 

 

 

 

 

 

「エカテリーナ宮殿」琥珀の間

 

エカテリーナ1世

 

 

 

 

 

 

 

 

「エカテリーナ1世」肖像画

 

アレクサンドロフスキー宮殿

 

 

 

 

 

 

「アレクサンドロフスキー宮殿」全景

 

アレクサンドロフスキー宮殿1①

 

 

 

 

 

 

 

「アレクサンドロフスキー宮殿」中央部

 

アレクサンドロフスキー宮殿「深紅の間」

 

 

 

 

 

 

「アレクサンドロフスキー宮殿」深紅の間

 

アレクサンドロフスキー宮殿と庭園

 

 

 

 

 

 

「アレクサンドロフスキー宮殿」の地下と庭園を結ぶ部分?

みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,071

「世界のガーデン」第七章:「平面幾何学式(フランス式)庭園」

 

第54回:「チャッツワース・ハウス」と庭園

 

イギリスの「平面幾何学式(フランス式)庭園」を紹介中。今回は、「ハンプトン・コート」に続き「チャッツワース・ハウス」を取り上げます。

「チャッツワース・ハウス」はイギリスの主要部を構成するグレート・ブリテン島の中東部イースト・ミッドランドの中核都市の一つ、ダービーシャーにある歴史的建造物。当然その歴史も古く、ハードウィックのベスと通称されていた「エリザベス・ハードウィック」が、1,553年に建造を開始し1,560年に完成。その後、軟禁状態にスコットランドの「メアリー女王」の身柄が預けられたこともあり、より知名度が増したとも。

「チャッツワース・ハウス」はその後何度かの改装が施され、現在の建物は「エリザベス・ハードウィック」の子孫で初代のデヴォンシャー公「ウィリアム・キャヴェンディシュ」(1,640~1,707年・写真参照)時代に建築家「ウィリアム・タルマン」により1,686~1,707年にかけ大改築され、それが元となっています。ただし、1,820年にも増築記録があり、現在の「チャッツワース・ハウス」は当時の姿よりスケールアップしていると見て良いでしょう。

また、1,872年には明治初期に欧米諸国を歴訪したことで広く知られている、<岩倉使節団>も同ハウスを訪問し、その壮麗さ・部屋の多さ・蔵書の多さ・ワイン貯蔵庫のスケールなどに圧倒されたと言う記録が残されています。

一方、当シリーズのテーマとなる庭園に関しては、まずその巨大さに圧倒されます。「チャッツワース・ハウス」はダーウェント川沿岸にあり、面積は42ヘクタールに及びます。しかも、欧米の庭園には珍しく14キロに渡り石塀で囲われています。

そして、当然の事ながら1,600年代後半に造られた当時の庭園は「平面幾何学式(フランス式)」で、幾何学的な整然としたものでした。しかし、イギリスでは1,730年頃から幾何学的な庭に批判が興り、自然観を重要視した「風景式(イギリス式)庭園」が登場します。「チャッツワース・ハウス」もその影響を受け、第4代デヴォンシャー公爵「ウィリアム・キャヴェンティッシュ」が従来の庭を一掃し、「風景式庭園」に造り変えてしまいます。その後も1,928年から随時手が加えられ、高さ90メートルまで達すると言う「帝国噴水」・ロックガーデン・大温室などが加わり今に至っています。従って、創建当初の姿を根拠に、「チャッツワース・ハウス」の庭園を「平面幾何学式(フランス式)」の分類に組み込みましたが、今見る姿は「風景式(イギリス式)庭園」の印象が強い事を補足しておきます。

なお現在は、「チャッツワース・ハウス・トラスト」と言う組織が管理しており、広大な庭園を回遊し、建造物に足を踏み入れると、30もの豪華な部屋・それに付随するバロック様式の装飾・圧倒的な絵画コレクションを満喫できる、人気の観光スポットとなっています。

 

チャッツワース・ハウス

 

 

 

 

 

 

 

ダーウェント川沿岸に佇む「チャッツワース・ハウス」

 

庭園

 

 

 

 

 

 

 

 

 

庭園全景:作庭当初は幾何学式であったが、現在は自然重視の庭に

 

入り口付近

 

 

 

 

 

 

入り口付近

 

正面階段

 

 

 

 

 

 

 

 

正面の階段

 

ダイニングルーム

 

 

 

 

 

 

 

ダイニングルーム

 

彫像ギャラリー

 

 

 

 

 

 

彫像ギャラリー

 

by and published by; after Isaac Beckett; Sir Godfrey Kneller, Bt,print,(circa 1680-1685)

by and published by; after Isaac Beckett; Sir Godfrey Kneller, Bt,print,(circa 1680-1685)

 

 

 

 

 

 

肖像画:初代のデヴォンシャー公「ウィリアム・キャヴェンディシュ」

 

 

 

 

ダービシャー

 

 

 

 

 

 

 

 

東ミッドランドエリアの中核都市

 

 

 

 

みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,070

「世界のガーデン」第七章:「平面幾何学式(フランス式)庭園」

 

第53回:「ハンプトン・コート宮殿」&庭園

 

今回からはイギリスの「平面幾何学式(フランス式)庭園」を取り上げます。こう書くと<イギリスと言えば「風景式(イギリス式)庭園」ではないのかと疑問を呈する方もおられるかもしれません。しかし、同様式の庭が登場するのはもう少し後。従って、古い宮殿(庭園)の場合は「平面幾何学式(フランス式)庭園」またはそのアレンジ系の作品が一般的。

この項で取り上げるのはイギリスを代表する宮殿と言っても過言ではない「ハンプトン・コート宮殿」とその庭園。同宮殿は、ロンドンの南西部リッチモンド・アポン・テムズ・ロンドン特別区にある旧王宮。現在は主要な観光地の一つとして一般公開されており、世界的に有名な「ハンプトン・コート宮殿フラワー・ショー」の会場にもなっています。

同地を開拓したのは聖ヨハネ騎士団で、1,236以降荘園として同地を支配していました。その後、「ヘンリー家」がイングランドの統治者となり、「ヘンリー8世」(在位1,509~1,547年)が各地に49もの宮殿を建造。それらの建物は全て消失しましたが、その1つが「ハンプトン・コート宮殿」の元となったとの事。

その後、1,600年代中・後半になると、「ウィリアム3世」「メアリー2世」共同統治時代には大改装が行われるようになり、新しい両翼を増築。さらに、1,689~1,694年にはテューダー様式部の多くが建造されました。また、同じ頃に庭園もオランダの作庭家「ダニエル・マロ」と言う人物により大改装されたと言う記録が残っています。従って、現庭園のベースもこの頃に出来上がったと見るべきでしょう。

また、「ハンプトン・コート宮殿」には「迷路園」と呼ばれる著名な庭が存在します。同庭は1,689~1,695年いずれかの年に造られました。「ウィリアム3世」(在位1,650~1,702年)の為に作庭されたもので、その規模は243,000㎡に及び、数多くのパーツに分かれていました。

なお、ユーモア小説家の「ジェローム・K・ジェローム」(1,859~1,927年)は著書の中で以下のような言葉を残しています。

<「まあ行ってみよう。そうすれば話題にできるからな。しかし実に単純なものだ。迷路と呼ぶのもふさわしくないほどだ。右に曲がり続けるといい。10分ほど歩けば出られるだろうから昼食でも食べよう」。でもその後「我々はありがたいことに、すでに2マイルは歩いているよ」>と。でもこの言葉はかなり誇張されており、彼の時代の迷路は出るのに苦労するほどでもなかったとの事。

ただし、「迷路園」今も健在。大きく精巧な迷路が数多く存在し、分岐点が3箇所新しく導入さ、迷路の中を迷い歩く可能性が増えているとの事。興味ある方はイギリスを訪れた時に直接ご確認を!

ハンプトン・コート宮殿メインゲート

 

 

 

 

 

 

 

「ハンプトン・コート宮殿」の正面ゲート

 

ハンプトン・コートの俯瞰図1708年

 

 

 

 

 

1,708年作成の俯瞰図

 

外苑から内苑への入り口に建つ時計塔

 

 

 

 

 

 

 

 

外苑~内を結ぶ建物とゲート

 

クリストファー・レンのデザインによるメアリー女王の寝室

 

 

 

 

 

 

 

建物内部・・・メアリー女王の寝室(建築家:「クリストファー・レン」設計・デザイン)

 

西のファサード

 

 

 

 

 

西側のファサード

 

東のファサードと庭園

 

 

 

 

 

 

 

東のファサードと庭園(建物は「クリストファー・レン」設計)

 

プリヴィ・ガーデン

 

 

 

 

ガーデンの主要部:「プリヴィ(特別な)・ガーデン」

 

庭園①

 

 

 

 

 

幾何学的な刈込が施された迷路園①

 

庭園②

 

 

 

 

 

幾何学的な刈込が施された迷路園②

 

中庭

 

 

 

 

 

中庭

 

ウェールズのドラゴン

 

 

 

 

 

 

 

「ウェールズのドラゴン」と呼ばれるモニュメント

 

 

クリストファー・レン

 

 

 

 

 

 

 

「ハンプトン・コート宮殿」の建造に携わった主要な建築家「クリストファー・レン」

 

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