「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,059
「日本庭園と日本外構 編」・・・上田宗箇の作品「名古屋城の庭」!
「上田宗箇」の庭、最後に「名古屋城二の丸庭園」を紹介します。
「名古屋城」は名古屋市中区・北区にある巨城で、姫路城・熊本城と合わせ日本3大名城とも言われています。同城の元を築いたのは、実は織田・徳川の敵対勢力であった今川氏。1500年代前半に、尾張攻略の拠点として柳の丸と言う砦が造られ、これが起源との事。しかし、信長の父・織田信秀が奪取し、逆に織田氏の拠点となりその地盤固めに役立ちます。皮肉なもので、風雲児・信長もここで誕生し、やがて今川氏を滅亡させます。その後、信長は清州に主城を移したため、一旦は廃城に・・・
しかし、清州は水害が多く関ケ原の戦い以降は、徳川氏が再び「名古屋城」を西国統治の一大拠点として大幅増強(1609年~)。現在の巨城の元となります。従って、当然のことながら現「名古屋城」は徳川氏の城と言う事になります。1870年には、徳川慶勝が新政府に破却を申し入れますが、その存在を惜しみ城郭の保存を決定。その後、改築・復元が繰り返され、現在に至ります。
将軍の居住地「二の丸」も、改修作業が繰り返されているものの、門・塀・建物・庭園などの多くが保存され、庭園・外構と言う面でも、貴重な歴史的資料となっています。
「名古屋城二の丸庭園」は、北庭・南庭・東庭の3つに分かれており、東庭部分は明治初期に兵舎が建てられるなど、大きな変遷がありました。しかし、北庭と南庭は遺構と絵図を元に1973年復元。東庭もこの時再整備されましたが、基本構造が既に破壊されていたため、北・南庭は作庭当初の復元庭園、東庭は昭和の新庭と言うべきでしょう。
「名古屋城二の丸庭園」の作庭時期は、同城の歴史から見て、1610~30年頃と見るべきでしょう。作庭者は徳川家康の子・義直とするのが最有力説。さらに、直接の作庭に携わったのが「上田宗箇」と伝えられています。その動機は、義直が浅野家和歌山時代の庭を気に入り、彼に依頼したとの事。これは、あくまで伝承です。しかし、北・南庭の構造・レイアウト、それに作庭年代を見ると、「宗箇」作、あるいは監修の庭園である可能性は極めて強いでしょう。
「名古屋城二の丸庭園」の南庭は、木曽路の名勝・寝覚の床をイメージし造られたと言われています。このため別名も「寝覚の御庭」。作庭当初は、池を中心に中島を置き、奇岩と豪壮な石組が魅力の池泉式庭園でしたが、現在は水が無く枯山水となっています。北庭も基本的視点は同様で、形式にとらわれない、迫力満点の石組みが目を引きます。まさに「宗箇」イズムの庭と言えるでしょう。
そこで本日の一口アドバイス。
「名古屋城二の丸庭園=宗箇イズムで造られた最後の武将庭園?」
(りょう)
名古屋城の航空写真
名古屋城天守閣
名古屋城・二の丸航空写真
北庭①
北庭②
南庭①
南庭②
東庭