りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,173

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・作庭書「築山庭造伝・後篇下」⑤!

「築山庭造伝・後篇下」・・・秋里離島著 1828年の作

注意事項:「築山庭造伝・後篇」に関しては、他の作庭書以上に図面・イラストが多用されていると推定されるが、残念ながら中谷ゼミ資料に同添付はない。

8:浜松周辺の庭に関して

作者は分からないが、浜松周辺には非常に古い様式の庭が複数ある。殆どが、思い切ったアレンジを加えた作り方(草)で、平庭の一種でもある。海を表現した枯山水(原文=一体の石姿)の構成には極めて奥深いものがある。当地にはよく似た庭が他にもあり、これらを一寸庵とも呼ぶ。おそらく、同一人物の作庭であろう。重ねて言う。これらは非常にレベルの高い庭である。

9:素晴らしい松御茶屋の庭に関して

浜松の沿岸に素晴らしい木が植わっている。それが有名な颯々の松である。かつてそこは浜松の太守が所有し、見学希望者が近寄る事さえ出来なかった。敷地内にある颯々の松周辺には石組も施され、一つの庭としての形も整えられていた。この庭は七賢庭とも呼ばれていた。作者は一円(詳細不明)。そして、この庭も一寸庵の一つであろう。解放的で広々とした場所にわずか5〜7個の石組を施しただけだが、その構成は見事だ。間違いなく名人が作った庭である。作者が分からない事が非常に残念だ。なお、同庭の図を添付しておく。

10:全てが満足と言う庭に関して

完璧とも言える5つの庭の図を提示しておく。我が家で所有していた古い図と資料に記されていたものである。その記載内容から類推すると、決して遊びや酔狂で作られたものではない。由緒正しいものであるに違いない。近年の流行の元となった形体のベースとなったものであろう。

理由は、そこに記載されている庭の拝石は中島に設置されており、穢れを受けるようなことが無いように配慮されているからだ。さらに、守護石・築山・泉水等の構成も、主を守るための配慮、主な散策路の形状・機能性など、全てにおいて満足のいく作庭内容となっているからである。

だから、その図を元にして庭を作れば、必ず素晴らしい作品となる。だから、その図を巻末に掲載しておく。掲載図を参考にして、石組・植栽等を行いなさい。そうすれば失敗など無くなる。かの有名な作庭記の中に提示された図ではないかとさえ思える。

補足事項:作庭記=我が国最古で平安時代の作庭書。橘俊綱(藤原頼通の子)作とする説が有力(全訳紹介済み)。ただし、作庭記に図はまったく掲載されていない。従って、脱落してしまった図に相当するのではないかと推測しているのであろう。ちょっと考えすぎ・・・

主は安泰で、長く発展し続けられる。そんな相が同図の中に示されている。住む人の活力を生み出し、全てにおいて満足な状況を作り出す。そのような庭がそこに提示されている。

そこで本日の一口アドバイス。

「幻の橘俊綱が示した図が家宝の中に? 残念ながら根拠なし・・・」

(りょう)

259:天竜川

 

 

 

 

 

 

遠州灘に注ぎ込む「天竜川」

 

259:龍潭寺庭園

 

 

 

 

 

遠州の庭園例:龍潭寺庭園(浜松市北区)

egg-3月の「合同定例会」「店舗見学会」・・・体験参加者募集中!

 

egg-3月の「開発PT会議・東西会合定例会」「店舗見学会」

体験参加者募集中!

 

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木製立体トラス:左・サイクルポート、右・パーゴラ

 

「開発PT会議・東西合同定例会」

*開催日時:3月26日(木) 13:00〜17:00

*開催場所: 「myガーデン」 (名古屋市千種区)

「店舗見学会」

*開催日時:3月27日(金) 9:00〜16:00

*見学予定店舗:「えくすてりや不二」(愛知県春日井市)〜「堀央創建」(愛知県小牧市)〜「GARDEN ART」(三重県いなべ市)

 

体験参加のお問い合わせ・お申込みは下記E-mailから・・・

E-mail info@niwagatari.com

 

 

穏やかな人になるためには。

H様邸 やっと 完成しました。

お天気の影響で なかなかはかどらず

予定より 工期が長引いてしまい

H様には ご心配 ご迷惑をおかけしてしまいましたが

素敵な外観に仕上がったと思います。

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広い駐車スペースに 2台用ガレージ

門扉の奥には 春先には

芝生が 生えそろう予定の大きなお庭もあります。

こんな素敵なお庭とお宅に住めたら

H様ご夫妻のように

穏やかな人になれるのでしょうか?…(#^.^#)

H様 ありがとうございました。

 

りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,172

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・作庭書「築山庭造伝・後篇下」④!

「築山庭造伝・後篇下」・・・秋里離島著 1828年の作

注意事項:「築山庭造伝・後篇」に関しては、他の作庭書以上に図面・イラストが多用されていると推定されるが、残念ながら中谷ゼミ資料に同添付はない。

6:小松原山(山号)東観音寺の宝物

*天平5年(733年)に天皇からのお褒めの言葉(叡感)を頂いた。その書を毎年1月18日の寅の刻に、馬頭観音像に備え、仏法が広く伝わることを願い(法楽)これを読み上げる。

*仏像を作った木(御衣木。ここでは馬頭観音を彫った木と言う事か?)で堂を作っている。同寺の素晴らしい財宝だ。

*能面十二品。得若・春日・由普の作品で、鎌倉の鶴岡八幡宮(源頼朝ゆかりの神社)でこの面を付けて度々能が奉納されたと言う貴重なものだ。その後、この能面が使われたことは無く、やがて東観音寺に奉納された。奉行の梶原平(=梶原景時・鎌倉時代の御家人)が参拝したときに黄金二千金と一緒に奉納したと言う記録文が一通残されている。それらは、後に箱に収められて、同寺の至宝となった。その他、4体の観音像も奉納され、能面12品と合わせ、16個の宝物となった。

*西行上人が所持していた悟りへの道を示した巻物一巻

*御製札の本書。そこには、以下のようなことが書かれている。

この寺内で固く禁じられている事。寺内の樹木を絶対に伐採してはならないと言う記述。寺内では狩猟をしてはならないと言う記述。そして、禁を犯した者は即刻手打(死刑)か寺からの追放となると言う記述。この御製札は慶長10年(1606年)に徳川家康公の名で作成されたものである。

7:遠州・浜松にある鴨江寺の庭に関する解説

鴨江寺(行基ゆかりの寺。42代・文武天皇<在位683~707年>勅願により創建。徳川家康により再建。遠州高野山別格本山とも称されている)は大寺院である。ただし、詳細は東海道名所図会(江戸時代後期に表わされた、絵図が多数添付された名所案内書)に紹介されているので省略する。

鴨江寺本堂の庭園は幽霊坊(詳細不明?)が作ったと言う記録がある。伝承によると幽霊坊は遠州国で禅宗の一派を立て奥山寺(詳細不明?)で活動していたとの事。同寺の塔頭に住んでいた。彼の心は優美で賢人でもあり、修業も熱心に行った。だが、全ての修行を終えると同寺を後にした。だから、彼の住んでいた塔頭に寄る僧があっても、その後の彼の行方を知ることが出来ず、仕方なく彼の葬儀が執り行われた。だから、行方不明後の彼の事を幽霊坊と呼ぶようになった。

塔頭を後にした後の幽霊坊は、作庭家となったと伝えられており、近郊で様々な庭を作ると言う生涯を送った。そして、鴨江寺の庭園は幽霊坊最大の作品となった。

鴨長寺庭園の池に架けられた橋を渡月橋と呼ぶ。待合用の建物は聴雨軒と言う。茶室は蟹眼屈と言う。山上の亭は望難屋と言う。そして、望難屋から西南方向を望むと、遠州灘の前景を眼下に観ることができる。その海には1つの島さえなく、満々とした海が広がっており、少し霞がかかった時には、海と空の境目さえ分からない。

鴨江寺は、無限に広がる慈悲で人々を救済し、大願を成就させてくれると言われている。だから、参拝者が絶えることが無い。寺への道筋には晴れ晴れとした人々の心が満ち溢れ、吹き抜ける松風は爽やかで、遠州と言う国の素晴らしさを象徴する存在にもなっている。

そこで本日の一口アドバイス。

「遠州の古寺を2か所紹介。ただし、現在に伝わる本格的庭園はなし?」

(りょう)

258:鴨江寺古観図

 


 

 

 

 

 

昔の「鴨江寺伽藍図」

 

258:鴨江寺

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在の「鴨江寺」

りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,171

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・作庭書「築山庭造伝・後篇下」③!

「築山庭造伝・後篇下」・・・秋里離島著 1828年の作

注意事項:「築山庭造伝・後篇」に関しては、他の作庭書以上に図面・イラストが多用されていると推定されるが、残念ながら中谷ゼミ資料に同添付はない。

4:東観音寺の略歴

45代・聖武天皇の時代であった、天平5年癸酉(ミズノトトリ=733年)に行基菩薩(僧・行基=668〜749年。現在の大阪府堺市生まれ。奈良時代の怪僧。奈良の大仏開眼のためにも尽力)が人民救済の想いをこめて東国(ここでは近畿地区より東側と解釈すべきであろう)へ旅立ち、東海地方のあらゆる場所に足を運んだ。

行基がある不思議な場所に来た時、ゆらゆらと揺れる波間から白馬に乗った一人の僧(優婆塞=ウバソク=寺にこもるのではなく、在家に出て布教・救済活動を行う僧侶)が現れ彼に言った。私は馬頭太郎(「馬頭観音」のこと)であると。そして、貴方が願いを込めて熊野権現の地を後にすることを知っていた。いつの世にか、救済者が西の地から旅立ち、この地を訪れる事を知っていた。だから、白馬をこの地に留め待っていた。

この地を訪れた行基菩薩は、霊力あらたかな木で自ら馬頭観音像を彫り、草堂を作り安置した。そして、堂を閉ざしたまま千年以上が経過した。その扉は未だに閉ざされたままだ。云々〜中略 木彫りの馬頭観音を庭に置き、雨・露にさらされ千年以上の時が過ぎた。しかし、未だに朽ちることがない。

東観音寺の本堂には、「山門東観音寺」と「小松原山(=同寺の山号)勅願所」&若干の小さな文字が書かれた額が各1枚掲げられている。小松原は霊験あらたかな地となっていた。そして、千年の昔から、救済のためのお札を人々に授けた。今もまた、一つの里・一つの村全てが、霊験あらたな地であることに変わりはない。この記録は、和漢三才図会(江戸時代中期に寺島良安と言う人物が編纂した百科事典のようなもの)・伽藍開基里人談(東観音寺が創建された時から地元に伝わる伝承)などに記録されている。その他、歌を纏めた夫木集(鎌倉時代後期の私選和歌集)の中の道経(藤原道経=フジワラミチツネ=平安時代後期の歌人)篇や、日本三代実録(平安時代末期の歴史書)にも、その足跡が見られる。

「夫木集」の掲載例

行末のはるかに見ゆる小松原 君が千歳のためしなりけり・・・藤原清輔(フジワラキヨスケ=平安時代の公家・歌人)

神代より生ひや初けん小松原 いく千世紀と知る人ぞなき・・・藤原道経

その他にも、為忠朝臣(藤原為忠=鎌倉時代前・中期の歌人)が著した三河国名所歌集(詳細不明)等にも記録がある。それによると、東海道にある吉田城下の百町(1町≒110m。従って百町≒11㎞)ほど南の地の小松原と言う国(エリア)に一つの村があった。同村は、大岩(地名)から36町(≒4㎞弱)、白須賀(地名)50町(≒5.5㎞)に位置していた。

そこに小松原山東観音寺の境内があり、昔は現在地より海に近く、海岸から18町(≒2㎞)程であった。だから、絶景であったことは言うまでもない。南は遠州灘を一望でき、西は伊良子崎を含め尾州(尾張の国)の多くの岬が見えた。そして、海は満々と広がり、沖に浮かぶ島には千鳥だけが飛び交っていた。

またその海岸は、西へ向かうと紀州の浦へと繋がり、そこに熊野権現があり、行基菩薩がそこで救済の誓いを立てた。誠に不思議な因縁である。この霊験あらたかな地に、千年以上鎮座していた馬頭観音があり今日に至ったのも、このような因縁によるものだ。

その昔、西行上人もこの地を訪れ留まった事がある。彼もまた、悟りにつながる教え(如意)を会得した僧であった。西行上人は馬頭観音の傍に石を置いて水を引き込んだ。その水を照心水と呼ぶ。だが、そこは谷川の近くで、当時の面影はわずかに残っているだけで、確認することは難しい。だから、図として残しておく。

そこで本日の一口アドバイス。

「小松原山東観音寺の伝承が延々と・・・ここまで執着する意味は?」

(りょう)

257:行基像

 

 

 

 

 

 

 

行基像(唐招提寺)

257:西行法師画

 

 

 

 

 

 

 

西行法師画(江戸時代の作)

 

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