りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO1,631

 

「世界のガーデン、日本のガーデン 編」・・・「夢窓疎石」の庭園って何だ?

「室町時代」に「日本庭園」は爛熟期を迎えたと述べました。その重要ポイントの1つが「夢窓疎石」の存在です。そこでこの項では、彼が作庭した庭園を紹介し、それをベースに彼の考え方、当時に「日本庭園」の状況に迫ってみたいと思います。

「夢窓疎石」は日本の歴史上最も著名な庭園家ですが、元来は「臨済宗」の僧侶です。南北朝期~室町時代にかけて活躍し、1351年に76歳で没しました。その間、西芳寺庭園(京都市西京区、世界遺産)、天竜寺庭園(京都市右京区、世界遺産)、永保寺庭園(岐阜県多治見市、国の名勝)、瑞泉寺庭園(神奈川県鎌倉市、国の名勝)、恵林寺庭園(山梨県甲府市、国の名勝)、覚林房庭園(山梨県身延町、町指定文化材)など多くの名園を残しています。

また、彼は多くの名前を持つ人物としても有名で、天皇から与えられた国師号だけでも7つあり、七朝廷師とも呼ばれています。その中でも「夢窓国師の名が特に良く知られ、この名前の方が通りがよいかも知れません。そしてここでは、「夢窓疎石」の2つの作品を取り上げます。「西芳寺庭園」「永保寺庭園」です。

「西芳寺」「苔寺」とも通称され特に庭が有名なお寺です。寺暦は非常に古く、開山は奈良時代の偉僧行基(それ以前は聖徳太子の別荘であったとも)で本尊は阿弥陀如来。ただ、中興の開山者が「夢窓疎石」で、現在の姿はそれ以後のものと解釈すべきでしょう。当然、夢窓以後は「臨済宗」の寺院となっています。

「西芳寺」の庭園は、上段の枯山水と、下段の池泉回遊式、と言う2つの部分から成り立っています。特に、境内北側の枯山水の石組は「夢窓疎石」当時のものが残っていると言われており貴重な存在です。回遊式部分では苔が敷き詰められ、黄金池とのバランスが絶妙で、「苔寺」の名前もそこから来ています。また、禅の精神との融合、山にある禅堂からの展望、借景との調和など、庭園として優れた要素を多数持つ、「室町時代」の代表的庭園であることは言うまでもありません。

「永保寺」は臨済宗南禅寺派の寺院で、「夢窓疎石」がこの地を訪れた時、岩山の上に観音菩薩像が出現し、それを切っ掛けに1314年に観音堂を建立したと言われているなど、伝説の多いお寺です。その観音堂(名称:水月場)は国宝にも指定され、同寺の庭園もまた高い評価を受けています。中国庭園様式を思わせる庭で、「虎渓山」とも呼ばれています。ただ「夢窓疎石」に訪中経験は無く、あくまで彼の想像の世界として演出されたものでしょう。

このように、「夢窓疎石」の庭園は、周辺条件により大きな異なりがあります。自然との調和を大切にしたからでしょうか。ただし、それは自然の模写ではなく、精神世界と現実世界と言う2つの要素から成り立っています。そこに室町時代に確立された庭園様式とは何かを解き明かす、キーワードが隠されているともいえるでしょう。

そこで本日のひと口アドバイス。

「周辺条件をたくみに活用した夢窓! ただし、精神・現実と言う2つの世界で庭園構成!」

(りょう)

 

 

 

 

「西芳寺」の庭園(回遊式部分)

 

 

 

 

 

 

「西芳寺」(茶室「湘南亭」)

 

 

 

 

 

 

「永保寺」(庭園全景)

 

 

 

 

 

「永保寺」(中国庭園を思わせる「虎渓山」)