りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO1,635

 

「世界のガーデン、日本のガーデン 編」・・・「上田宗箇」と「小堀遠州」の世界?

「室町時代」には北山文化、東山文化が情報発信元となり、多種多様な芸術・芸能が花開きます。「日本庭園」も爛熟期に入り、ほぼ全ての様式が出揃います。さらに、茶道の影響を大きく受け「露地」と言う特有の世界も創出します。しかし、その戦国時代に突入すると、一種の空白時代を迎えます。勿論、「露地」と言う小さなスケールの庭園は造られていたでしょうが、庭園史として取り上げるような情報は殆どありません。

戦乱の世で、戦国時代に造られた著名な建造物は城ばかりで、庭園どころではなかった、と言ったところでしょうか? その城も、実践用のもので、観賞や芸術・芸能的な空間は茶室程度に限られていたのでしょう。

しかし、戦国時代も一段落すると(おそらく安土城築城以後)、城も天守閣が作られるようになり、戦争用オンリーから、生活・文化的要素を加えた建造物へと変貌します。同時に、この頃から庭園文化の復活が見られるようになります。そして、この復活に大きな足跡を残したのが「上田宗箇」「小堀遠州」と言う2人の著名な作庭家です。両者とも武将であり、茶人でもあり、その立場・才能を庭園造りにも活かしたと解釈すべきでしょう。

「上田宗箇(うえだそうこ)」は、尾張生まれの武将で、本名は「上田重安」丹羽家・豊臣家に仕えた剛勇で、多くの手柄をあげて大名にまで上り詰めます。しかし、関ヶ原の戦い(慶長5年、1600年)で西軍につき、領地を没収され、摂津国(大阪)に追われ剃髪し「宗箇」と名乗ります。以後、茶道と作庭の分野で名を残すようになり、戦乱が生み出した芸術家とも言えるでしょう。ただし、晩年には許され、子孫は上級旗本となり徳川家に仕えます。

「上田宗箇」の庭園作品としては、和歌山城西の丸庭園、粉川寺(和歌山県)庭園、旧徳島城表御殿庭園(写真参照)、広島藩の庭園、鷹野橋(広島市)、などが伝えられていますが、一部不明な点もあります。

「小堀遠州(こぼりえんしゅう)」「上田宗箇」と同時代(安土桃山時代~江戸初期)の著名な武人。近江国坂田郡小堀村(現:滋賀県長浜市)の生まれで、最初は縁戚の浅井氏に仕えます。しかし、同氏は滅亡し、豊臣秀吉の家臣となります。さらに、関が原の戦いでは東軍として参戦したことにより、備中松山城の藩主となります。その後、駿府城の城普請奉行となり同城修築の功により、従五位下遠江の官位を受け、この官名により「小堀遠州」(遠州の小堀さん)と呼ばれるようになります。

以後、建築に対する能力、茶人としてのセンス、等が認められ、名古屋城天守閣、後陽成院御所の造営、水口城(滋賀県甲賀市)、伊庭御茶屋(滋賀県近江市)、大阪城御茶屋、南禅寺本坊方丈南庭、大徳寺庭園の各種茶室・露地、桂離宮松琴亭庭園(写真参照)、など多数の建築物・庭園の造営に関わっています。

さらに両者の出現以後、「日本庭園」「大名式庭園」と言う舞台を得て、新たな世界を創出します。

そこで本日のひと口アドバイス。

上田宗箇小堀遠州という2人の武人作庭家が、新しい庭園時代の幕開けを・・・」

 

 

 

 

 

「上田宗箇」

 

 

 

 

 

「徳島城庭園」(作庭:上田宗箇)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「小堀遠州」

 

 

 

 

 

「桂離宮・松琴亭」(作庭」小堀遠州)