りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO1,920

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・飛鳥時代と日本庭園③?

「飛鳥京跡苑」についてもう少し詳しく検証します。前述の通り同苑池は1999年(平成10年)にほぼ全容が明らかになりました。同苑池はあくまでも板葺宮とセットで考えるべき庭園(苑池)遺構で、政務のかたわら、皇族・貴族等の苑(園)遊、観賞、場合によっては懇親の場、等に使われたものと考えてよいでしょう。2000年(平成12年)にはさらに発掘が進み、苑池の規模は東西80m×南北200mに達すことを確認。前項のイメージ画からも推定されるように、植栽、遊歩道のような観賞のための整備も行われていたと思われます。

では、「飛鳥京跡苑」は誰がどのような形態で造ったのでしょうか。歴史的記録が少ないため正確にはわかりませんが、斉明天皇の頃(7世紀中葉)に造営が開始され、天武天皇の頃(7世紀後半)にほぼ完成したとのこと。その後10世紀頃までは機能していたが、少なくとも鎌倉時代前には完全に埋没したと推定されています。つまり、1800年以上の時を経て、我々の前に姿を現したということになります。

飛鳥京では「飛鳥京跡苑池」とともにもう1つ日本庭園にとり重要な遺構が発見されています。それが、酒船石遺跡です。高度な水利に関する遺構で、水が重視される日本庭園にとりルーツ的な技法が残されているからです。

酒船石関連では、1916年(大正5年)に近くの飛鳥川から飛鳥京に水を取り込むためと思われる出水の酒船石が発掘されており、その延長上にある水に関する施設が存在する可能性を示唆していました。しかし、発見場所が400m程離れており、酒船石遺跡に関する水利施設とは別物です。

酒船石遺跡とは2000年(平成12年)の発掘で発見された、酒船石、亀形石造物、小判形石造物をセットとして付けられてた呼称です。ただし、酒船石と亀形石造物、小判形石造物とは直接の関係はないとする説もあります。同遺跡は多身嶺(とうのみね)と言う高台にあり両槻宮の入り口付近の施設と考えられます。酒船石のサイズは東西5.5m×南北2.3m×厚さ1mで、そこに窪みと溝が刻まれています。酒を作る施設、薬を作る施設、庭園用施設、等諸説ありますが、近くに水を引くための土管等も発見されており、大きさから判断しても庭園関連と見るのが順当ではないでしょうか?

亀形石造物、小判形石造物は水槽になっており明らかに水をためる目的の施設です。周辺も石敷きで整備されており、祭礼用と言うのが最有力説ですが、本当の目的は不明です。従って酒船石遺跡自体、外形はほぼ明確になりましたが、謎の遺跡と言うのが本当のところ。ただし、飛鳥京跡の位置関係から、日本書紀の斉明天皇時代の記述(板葺宮の東の丘に石を累ねて垣とす)に当たると言われており、注目度が極めて高い遺跡であることは間違いありません。

そこで本日の一口アドバイス。

「板葺宮とセットの苑池。そこから見上げる丘陵にある酒船遺跡が語るもの?」

(りょう)

 

 

 

 

出水の酒船石

 

 

 

 

 

 

 

酒船石

 

 

 

 

 

 

 

亀形&小判形石造物