りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO1,921

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・白鳳文化と日本庭園の関連性?

飛鳥時代の日本庭園について検証しました。そして、飛鳥京に日本庭園第1号とも呼ぶにふさわしいものが存在したことが分かりました。ではその後、日本庭園はどんどん普及・発展して行ったのでしょうか? 少し長いスパンで考えると、答えはYESと言うことになります。また、実際には各所で初期の日本庭園が造られていたのかも知れません。しかし、遺跡発掘及び現存する資料の中では少し空白の時間があります。

飛鳥以降の歴史・文化を見ると、飛鳥時代(文化)~白鳳時代(文化)へと受け継がれて行きます。白鳳時代とは大化の改新(645年)~平城京遷都(710年)間を指します。つまり、広義の飛鳥時代後半の時代・文化と言うことになります。飛鳥時代~白鳳時代への変化を一言で述べるなら、中国・朝鮮文化の模倣から若干の国風化といった表現が出来るでしょう。

その状況を語る上で最もよく知られるのが、仏像の変化です。飛鳥時代の代表的仏像は飛鳥大仏、法隆寺の釈迦三尊像。一方、白鳳時代の代表は薬師寺の薬師三尊像(現・薬師寺以前に造られ移設された仏像)。前者が細身で大陸的であるのに対して、後者はふっくらとしており日本人好み的に進化しているからです。ただし、白鳳時代になり藤原京(694年~704年)に代表されるように、都市(都)はさらに中国都市の影響を強く受け、大陸からの文化吸収時代が継続していました。

本題の庭園に話を戻すと、飛鳥・白鳳時代に初めて「庭」と言う言葉が登場します。ただし「朝庭」と言う言葉で、日本庭園的な「庭」とは少し意味が異なります。「朝庭」とは宮都の政務を行うメインの屋外空間のことであるからです。当時の政務が行われる場所(つまり都の心臓部)は周囲を建物と塀で囲まれ、中心に大極殿がありました。そして、大極殿前の最大の屋外スペースが「朝庭」(写真参照)と言うわけです。従って、「朝庭」は庭園とは異なりますが、前述のごとく建物と塀で囲まれており、日本外構のルーツと言えるでしょう。

白鳳時代の建造物としては本薬師寺((建物は現存せず遺跡のみ)、山田寺(浄土寺)、法隆寺西院伽藍(飛鳥様式で白鳳時代に再建)、法隆寺東院伝法堂(白鳳時代の住居を寺とした)などがあり、それに付随した庭園が存在した可能性はあります。ただ、一般人が目にできる範囲の発掘記録はありません。つまり、現状では飛鳥京跡に続き庭園(あるいは庭園遺構)として紹介できるものは、藤原京や白鳳時代には存在しないと言わざるを得ません。

では、現時点で飛鳥京跡の後に紹介できる日本庭園に関する存在とは? それは、白鳳時代に続く奈良・天平の時代と言うことになります。具体的には平城京において庭園に関する遺跡が発見され、近年その物件が再生され私たちが目にすることが出来るからです。

そこで本日の一口アドバイス。

「朝庭は日本外構のルーツ? でも、白鳳時代の庭園はまだ闇の中!」

(りょう)

 

 

 

 

「朝庭」:長岡京朝堂復元模型(日向市文化資料館)

 

 

 

 

 

 

藤原京発掘現場

 

 

 

 

 

 

 

飛鳥大仏