りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO1,957

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・平安時代後期と当時の庭園?

25回にわたり「作庭記詳述」と言うタイトルで、日本最古でかつ庭作りのバイブル的存在の「作庭記」について、その内容を可能な限り分かりやすく提示しました。今回からは、テーマを元に戻し、平安時代後期と言う時代と当時の庭園について検証します。

まず、平安時代後期とはどのような時代であったかを確認しておきます。平安京が誕生したのは794年。つまり8世紀終盤から平安時代が始まったと言う事。そして時代は進み、11世紀後半から一般的には平安時代後期と言う表現を使います。

平安期は律令体制をベースに、地方では郡司、郷司、等が中央から派遣され政務を行っていました。しかし、外見上は同じ支配形態であっても中身に少しずつ変化が生じてきました。郡司、郷司、その他の地方有力役人が次第に自立色を高めていったことが、その最大の変化と言えます。具体的には、独自に墾田を進め財力を蓄え、開発領主として中央の言うことを聞かなくなって行ったからです。当然のことながら、独立を阻止しようと思う中央勢力と、自由に活動しようとする地方豪族との対立も深刻化します。

中央の政治形態としては、天皇の代行を摂関家が行う摂関政治形態が続いていました。勿論、摂関家の代表が藤原氏です。しかし、天皇と摂関家の対立、地方豪族の台頭等により、この政治形態も次第に機能不全の状況に至ります。そして、中央の対立、地方の独立を阻止するためのキーマンとなったのが武士であったわけです。当初、武士は貴族の配下として活躍しました。しかし、役割りの重要性が増すとともに勢力を伸ばし、地方では反乱者のリーダー、中央においては政務にまでタッチするようになり、やがて平清盛が政治実権を握り、貴族政治~武家政治への移行の切っ掛けを作ったことは、誰もが広く知るところです。

地方氾濫の先駆けとなった10世紀の平将門・藤原純友の乱。12世紀の源氏・平家の台頭~保元・平治の乱による源平激突~平家(平清盛)の政権奪取などはその代表的出来事として広く知られています。

一方、文化に目を転じると、平安時代中期には貴族文化が定着し、日本特有の国風文化が発展を遂げます。その一方で、平安時代前期の菅原道真、前出の平将門・藤原純友、保元の乱絡みで有名な崇徳天皇、などの怨霊話にも影響され、末法(仏の慈悲が届かなくなる最悪の時代)思想が定着します。その救いの切り札として登場したのが阿弥陀如来の世界・浄土で、宇治の平等院に代表される「浄土式庭園」が各所に造られるなど、ガーデンの世界にも大きな影響を及ぼします。

文学的には、平安時代中期に貴族女性が書いた「枕草子」「源氏物語」などの文学、その他、和歌・日記などが多数登場しますが、後期になると歴史物語・軍記物語等に主役が移行します。時代の流れを考えると、当然の変化ともいえるでしょう。

庭園に話を戻すと、寝殿造庭園の登場~同建築・庭園の発展~「浄土式庭園」の登場・発展、と言う経路を辿ります。従って、次項からは「浄土式庭園」とは何か、出来るだけ詳しくその足跡を追ってみることにします。

そこで本日の一口アドバイス。

「平安時代後期のキーワード=武家政治社会確立の前夜+末法思想!」

(りょう)

 

 

源平の合戦屏風(赤間神社所蔵)

 

 

 

 

 

 

 

 

平将門(築土神社所蔵)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

藤原純友(1855年ごろ描かれてと言われる画)