りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO1,960

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・平等院とその浄土式庭園①!

「浄土式庭園」について検証中です。そして、前項の鳥羽離宮(遺跡)に続き、宇治市の「平等院」を取り上げます。

京都府宇治市の平等院近辺は、平安時代の皇族・貴族とは切ってみきれぬ間柄にある地域でした。この地が歴史に登場するのは9世紀末頃からで、嵯峨源氏(源氏物語の主人公・光源氏のモデルとも)の別荘がそこにありました。その後、宇多天皇が別荘を譲り受け、さらに源重信のものとなった後、藤原道長が改修し「宇宙殿」を造営しました。これが、「平等院」の原型と言って良いでしょう。

さらに、道長の子関白・藤原頼通が1052年に宇宙殿を寺院として建て直しこれが「平等院」直接のスタート。開山は園城寺(大津市、通称・三井寺)の長吏を務めた明尊で、当時の本堂は現・鳳凰堂より北にあり宇治川の河岸付近と言われています。本尊も大日如来で、現在の「平等院」のイメージとはかなり異なっていたようです。ただ、「浄土」へのあこがれは強く、翌年の1053年には早くも阿弥陀堂が建立だれました。これが今も引き継がれている「鳳凰堂」です。

では、「鳳凰堂」とはいかなる意味を持っているのでしょうか? 浄土三部経の基幹経典ともいえる「無量寿経」の中に「若欲至心生西者、先当観於一丈六像在池水上」(もし西方浄土に生まれたいと思うなら、まず、池上に存在するように、一の丈六サイズの<5m前後>像を置き、それを観るようにせよ)と言う言葉があり、それを再現したものです。

だからこそ、阿弥陀堂(鳳凰堂)と阿弥陀如来像、そして池が必要であったと言う事です。しかも、池面にそれが映し出さなければ意味がありません。現在の鳳凰堂と、そこにセットされた「浄土式庭園」がどの程度平安時代の姿を残しているかは、少なくとも専門家以外には不明です。しかし、このような発生動機から類推し、基本構成は同じであったと考えてよいでしょう。また「浄土式庭園」は阿弥陀堂、阿弥陀如来像、それらを映し出す池がセットされ初めて成り立ったと言う事も忘れてはなりません。

特に「鳳凰堂」は1336年の楠正成と足利尊氏の戦いなど、何度かの戦禍に合いましたが、奇跡的に焼失を免れました。従って、補修は何度も行われていますが、創建当時の姿を残す貴重な存在です。だからこそ国宝にも指定され、仏師・定朝作の阿弥陀如来像とともに、日本でも屈指の重要な文化財となっています。

「平等院」の創設者・藤原頼通が宇治殿と呼ばれていたことでも類推できるように、宇治と言う地は藤原氏との関連性が極めて深く、その一族の住居と思われる寝殿造遺構等も多数発掘されています。だからこそ、その後の「平等院」、同「浄土式庭園」について、次項でもその姿に迫ってみたいと思います。

そこで本日の一口アドバイス。

「平安時代と藤原氏の姿を現代に伝える・・・それが平等院!」

(りょう)

 

 

 

 

鳳凰堂:平安期の姿を現在に伝えている

 

 

 

 

 

 

 

鳳凰堂・南翼の回廊

 

 

 

 

 

 

 

 

鳳凰堂・北翼の回廊