りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO1,968

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・平安期以前の外構「寝殿造」!

平安時代以前の外構について検証中です。「板蓋宮」「平城宮」「平安宮」に続き、この項では「寝殿造」を取り上げます。

宮(平安時代以降は「大内裏」とも)と「寝殿造」の建物としての決定的相違は、前者は朝廷が政務・儀式+居所(内裏)であったが、後者は貴族の居所(邸宅)であったと言う事。従って、スケール・目的が全く異なります。「寝殿造」の邸宅は、基本的には平安京内に造られていました。そして、同都は条坊制で区画整理(約120m四方が一町)されたおり、その影響で基本的な敷地サイズ、全体構成がほぼ同じであったと言う事。

「寝殿造」邸宅の敷地は、六位以下が約1,100坪(約3,600㎡・30町分)、三位以上が約2,200坪(約7,300㎡・60町分)。レイアウトとしては、北側に主要な建物があり、南側に「寝殿造庭園」が造られていました。そして、全体を築地と言う塀で囲まれ、主要な門は西四足門、東四足門と呼ばれ、東西にありました。この他にも南北に簡素な通用門がいくつかあり、日常の出入りはそこで行われていたようです。

建築様式としては、木造、高床式、そして屋根は檜皮葺きでした。従って、東西の四足門の屋根も桧皮で葺かれていたと考えられます。ただし、大内裏とは異なり、豪壮な屋根付き門では無かったでしょう。一方、外周の塀は前述にごとく築地と呼ばれていました。また、良く壊れて、放置するとみっともないため、修理も日常茶飯事に行われていたと言う記録もあります。加えて、想像図・模型等から類推しても、塀は土を固めたもので、屋根は無かったと推定されます。

ただし、外周の塀だけではなく、庭園部分の北側は寝殿と言うメインの建物、左右は中門廊、渡殿、釣殿、などと呼ばれる屋根付きの渡り廊下で囲まれていました。従って、外周意外に、各種建物と部分的な渡り廊下で庭を囲むと言う、2重構造の外構構成であったと言えます。また「寝殿造」も隋・唐の影響を色濃く受けていますが、南側に主要な門が無いなど、日本特有の変化も見られます。また、「寝殿造」の遺構は殆ど存在せず、平安期の各種記述や絵巻物により類推され、図面、想像図、模型等が作成されています。

 

 

 

 

 

 

「寝殿造 」平面略図

 

 

 

 

 

「寝殿造」イラスト

 

 

 

 

 

「寝殿造 」模型

 

 

 

 

 

 

「寝殿 」(メインの建物)正面のイメージ

 

 

そこで本日の一口アドバイス。

「寝殿造=築地と言う外周(塀)と屋根付き渡り廊下の2重外構!」

(りょう)