りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO1,979

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・平安期以前の外構「浄瑠璃寺」!

平安時代の寺院伽藍・外構について検証中です。そして、この項では「東寺」「大覚寺」「平等院」に続き、最後のサンプルとして「浄瑠璃寺」を取り上げます。でも、前3寺と比較すると「浄瑠璃寺」はスケール、知名度共にかなり劣ります。にもかかわらず、平安期のサンプルとしたのには2つの理由があります。1つ目は、同時期のサンプルとなる寺院そのものが意外に少ない事。2つ目は、同時代の伽藍・外構の変遷を良く伝える作品であるからです。

「浄瑠璃寺」は「浄土式庭園」のコーナーでも取り上げましたが、京都府木津市加茂西町にある、真言律宗の寺院。でも、ここで仏教に詳しいひとなら疑問を抱くのではないでしょうか。「(東方)浄瑠璃」とは薬師如来の世界です。そして、阿弥陀如来の世界は言うまでの無く「(西方)浄土」で、寺名との間に違和感があるからです。ただし、同寺には、薬師如来も本尊として鎮座しています。つまり、戒律を重んじる律宗とそれにふさわしい薬師如来のお寺であった。しかし、地域豪族等の救済への願いが、後に「浄土式庭園」と阿弥陀如来の安置と言う変化を加え、現在に至っていると推定してよいでしょう。なお、同寺の山号(正式名)は小田原山、開基(創始者)は義明上人。創建は1047年、阿弥陀如来が安置されたのは1100代初頭と伝えられています。

「浄瑠璃寺」の伽藍構成(伽藍図参照)は、本堂(国宝)とそれを囲む「浄土式庭園」、池の東には薬師如来を安置する三重塔、北側には律宗にふさわしい灌頂堂(大日如来を安置)、と言う形態になっています。これを、北側の山門と土塀で囲んで「浄瑠璃寺」全体の伽藍を構成しているわけですが、土塀は山側にはなく、自然の地形を使った部分的な囲みとなっていたようです。また、「浄瑠璃寺」は古いお寺であり、様々な改修が行われてきました。ただ、全体としては平安時代の面影を良く残していると言われており、貴重な歴史的建造物でもあります。

以上で平安期以前の外構についての検証を一応終了します。そして、その変遷を見ると、飛鳥時代は中国式の都・宮(後の大内裏)が造られる前の状況、平城・平安京においては中国式都市と宮構造の確立。さらに平安京と周辺の貴族住居では「寝殿造」と言う様式の確立と、建築物(外構を含む)と庭園の合体と言った変化が現れたことが良くわかります。

一方、寺院建築(伽藍)においては、奈良時代には中国・朝鮮式の大伽藍寺院が多く登場した。ただし、この段階では庭園は伽藍外部にあった。平安時代になると、奈良時代的な伽藍を持つ寺院は東寺のみで、「寝殿造」等の影響で伽藍構造に大きな変化がみられるようになった。さらに、「平等院」と「浄土ぢき庭園」の登場で変化が大きくなり、この段階で初めて伽藍内に庭園を持つようになった。つまり、周囲を囲む外構も、建物・広場の囲いから、庭を加えた囲みへと変化して行ったわけです。

そこで本日の一口アドバイス。

「浄瑠璃寺に観る、浄土式庭園登場とその影響による寺院伽藍・外構の変化!」

(りょう)

 

 

 

 

 

 

浄瑠璃寺の伽藍図

 

 

 

浄瑠璃寺本堂

 

 

 

 

 

本堂内の九体阿弥陀如来像

 

 

 

 

 

浄瑠璃寺山門