りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,001

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・室町時代後半と「東山文化」?

室町時代前半の庭園について述べました。この項からは、同時代の後半に造られた庭園について詳しく検証します。ただ、同時代は「東山文化」が花開いた時でもあり、当然のことながら当時の庭園とも切っても切れぬ関係にあります。そこで、本題に入る前に、この項では「東山文化」とは何かについて確認しておきます。

「東山文化」とは、足利8代将軍・義政の頃から広まった、建築、庭園、芸術・芸能など、幅広い分野に影響を及ぼした文化の事。それ以前の「北山文化」と良く対比されますが、時代的には約100年後の文化形態と言う事になります。当時の足利幕府は、有力者・守護大名等の力を抑えることが次第に難しくなり、かなりパワーダウンしていました。そんな中、8代将軍・足利義政に男児が無かったため、仏門に入っていた弟・足利義視を呼び戻し、9代将軍候補とします(1464年)。ところが皮肉なもので、翌年(1465年)正室・日野富子に男児(足利義尚)誕生。富子は強引に、有力守護大名・細川勝元を後見人とし義尚を9代将軍に据えます。

このような状況下で、義政は政治に対する意欲をなくし隠居。そして、「銀閣寺」の元となる「東山山荘」を京都東部に造営を開始(1482年)。同時に文化活動に勢力を注ぐようになります。言うまでもなくそれが「東山文化」で、「銀閣寺(東山山荘)」が情報の発信元となったため、この名前が付けられました。

社会体制に視点を戻すと、日野富子の目論見はすんなりとは成功しませんでした。足利義尚を9代将軍に据えることに反対する、強力な勢力があったからです。反対勢力の代表が有力豪族・山名持豊(宗全)で、細川勝元・山名宗全の名で分かる通り、周辺の家督争いも複雑に巻き込みながら、応仁の乱へと突入していきます。当然、室町幕府の有名無実化もさらに進みます。

その影響で、「東山文化」には「北山文化」とは異なる顕著な特色が見られます。A:センス的には非常に優れているが、どこか退廃的で「北山文化」と比較するとスケール・活力に劣る B:その一方で、力をつけた守護大名、豪族、庶民の富裕層へも、文化・芸能活動が広まる・・・と言ったものです。それを進化と見るか退化と見るかは意見の分かれるところですが、庭園においても「夢窓疎石」「北山文化」時代をベースとしながらも、別の側面が現れてきます(この件に関しては後述)。

「東山文化」が具体的に生み出したものとしては、「銀閣寺」「能楽(当時は「猿楽」=ストーリ性のある劇のようなものの総称)の普及」「茶道」「花道」「連歌」「書院造の進化~数寄屋造」などを上げることが出来ます。本題の庭園については、「銀閣寺庭園」「竜安寺庭園」「大仙院庭園」が代表とされており、次項からはこの3名園について詳しく検証します。

そこで本日の一口アドバイス。

「室町幕府の衰退と応仁の乱。そんな時代の東山文化とは・・・」

(りょう)

 

 

 

 

 

銀閣寺

 

 

 

 

 

 

能楽(当時は猿楽と呼ばれていた)

 

 

 

 

 

 

茶道(茶の湯)

 

 

 

 

 

書院造内の和室