りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,002

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・東山文化の代表的庭園「銀閣寺」①!

「東山文化」とは何か、それはどのような時代であったのか、ご理解いただけたでしょうか? この項からは、その「東山文化」を代表する3つの庭園を紹介します。まずは、「銀閣寺」。

「銀閣寺」①

「銀閣寺」とは、正式名を「慈照寺」と言い、京都市左京区にある臨済宗相国寺派の寺院です。足利8代将軍・義政が隠居し居所として創建した「東山山荘」が母体で、1482年に建設がスタートしています。義政没後の1490年に彼を弔うため相国寺派の寺院とし現在に至っているため、同年以前を「東山山荘」、以後を「慈照寺」と呼ぶのが正しいでしょう。現在の銀閣寺は、銀閣(観音殿)、東求堂、庭園、本堂、庫裡、これらを取り囲む門・塀などから構成されており、創建当初からの面影を残す建造物として、銀閣、東求殿、庭園、等が特に重要視されています。

通称「銀閣」と呼ばれている建物は1489年に上棟された「観音殿」。「金閣」を参考にして造られたとされています。ただ、実際の建築様式はかなり異なり、2階建(「金閣」は3階建)の楼閣建築となるのでしょうが、書院造につながる雰囲気も持っています。屋根は宝形の杮葺(板葺)で、銅製の鳳凰が乗っていますが、18世紀以前は宝珠が設置されていて、現在とは雰囲気が異なっていたようです。また、「銀閣」と呼んでいても、創建当初から銀箔が貼られていた痕跡はありません。

「銀閣」の1階は、4部屋がありメインは仏間(8.2畳)で観音菩薩像を安置。全体的には書院造的な様式となっています。一方、2階は「潮音閣」と呼ばれ禅宗様の仏間です。

「銀閣寺」のもう1つの重要建築物「東求堂」は1486年の建立で、「銀閣」以前に造られました。これは、義政の持仏堂で生活とより密着した建物であったためでしょう。一重入母屋造の木造建築で、古い時代の書院造代表建築物としても著名。ほぼ6.9m角の平屋造りで、8条の仏間・4畳と6畳の和室、4.5畳の書斎からなり、外観・間取りとも住宅に近い構成となっています。

メインの仏間には阿弥陀立像を安置。また、「東求堂」という名前は、「東方の人が、西方浄土を求め救いを得る」と言った意味を持ち、義政が阿弥陀如来を深く信仰していたことが分かります。また、書斎を「同仁斎」と呼び、唐時代(中国)の文人・韓愈の言葉を引用したもので、彼が優れた文化人であり、かつそれが、書斎(書院)を大切にしたことにつながり、「書院造」を定着・発展させた原動力になったと見てよいでしょう。

足利義政は厭世的文化人であったとよく言われます。後半生は政治にあまり興味を示さなかったためですが、生き方そのものが「東山文化」の象徴であり、後に、茶道とつながる「数寄屋」「露地」と言った建築・庭園様式にも強い影響を及ぼしたのではないでしょうか。

そこで本日の一口アドバイス。

「銀閣と東求堂、そして足利義政が現代に伝えた文化とは・・・」

(りょう)

 

 

 

 

銀閣寺境内図

 

 

 

 

 

 

 

銀閣東正面

 

 

 

 

 

銀閣北東側

 

 

 

 

 

 

東求堂