りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,003

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・東山文化の代表的庭園「銀閣寺」②!

「銀閣寺」について検証中です。前項では、歴史的建築物「銀閣(観音殿)」と「東求堂」について述べました。この項では、この2つの建物ともセットになった、本題である「銀閣寺庭園」を取り上げます。

「銀閣寺」②

「銀閣寺庭園」は「夢窓疎石」作の「西芳寺庭園」を参考にして造られたとされています。従って、2段式になっており、上段は岩組、下段は池泉回遊式庭園とのこと。ただ、どの部分が上段で、どの部分が下段か判然としません。また、江戸時代に大改修が行われ、室町時代の姿とは大きく異なると言う説が有力でした。しかし。2009年の発掘調査で、逆に室町時代の構成とほぼ同じと言う説が浮上し、ある意味、謎の多い庭園と言えるかもしれません。

「銀閣寺庭園」は銀閣と東求堂を結ぶ逆L型の池を中心とした池泉回遊式庭園で、基本的には禅宗様とすべきでしょう。また、メインの錦鏡池と銀閣に接するように、白砂で抽象画を連想させる銀沙灘があり、これが大きな特色となっています。ただ、室町時代にはこのようなコーナーは無かったと考える方が妥当ではないでしょうか。

また、銀閣寺の形状から、当初は池も南に広がっていたとする説が有力でした。しかし、前述のように2009年の調査で、現在のように東側に池が広がっていた可能性が強まり、益々謎が深まっています。筆者の私見ではありますが、足利義政が阿弥陀如来を深く信仰していた可能性が強い事、彼は優れた芸術家で作庭にも深くかかわっていた可能性が強い事、などを加味すると「浄土式庭園」の面影も残していると考えるべきではないでしょうか。

「銀閣寺」は「金閣寺」と「夢窓疎石」の影響を強く受けています。従って、全体は間違いなく禅宗様です。しかし、当初から銀閣の東に池が広がっていたとすれば、明らかに池の東岸から西方浄土に見立てた銀閣を望むと言う側面を持つことになるからです。時代の流れ、臨済宗との関係から、「東山山荘(「銀閣寺」の前身)」は、禅思想を背景とした、シンプルで芸術性の高い建造物にまとめた。しかし、義政は一方で阿弥陀如来による救済を求めていた。それが、「銀閣寺」を複雑で謎の多い建造物とした。極端すぎる考え方でしょうか・・・

なお、「銀閣寺庭園」の作庭者は善阿弥、あるいは息子の次郎・三郎と孫の又四郎とする2つの説があるようです。後者であるとする説の方が有力ですが、彼等は義政に重用された庭師であったことは間違いありません。それに関連して、当時の庭師に関する貴重な資料が残されていますので、補足事項として提示しておきます。

善阿弥の作品としては、相国寺蔭涼軒(1458年)、花の御所泉殿(1461年)などが知られています。そして、足利義政だけではなく、彼は当時の著名人から非常に高い評価を受けていたと伝えられています。しかし、善阿弥は河原者と通称される被身分者(平民以下の身分)でした。庭作りと言う作業は、危険な重労働で、おそらくこのような階級の人たちが主に工事を行っていたのでしょう。

ただし、作庭に関しては、平安時代の「作庭記・橘俊綱」、室町時代の「夢窓疎石」に代表されるように、超一流のメンバーが関わっていました。ただ当然のことながら、俊綱や疎石が工事や現場監督を行ったわけではありません。その役割を河原者が果たし、その中で特に優れた技能者が目に留まり、特別な扱いを受けるようになったのでしょう。身分を超越した別格扱い。いつの世にもサクセスストーリーは存在したと言う事でしょうか・・・

なお、善阿弥のような特別な庭園技能者を山水河原者と呼んでいたようですが、特別な固有名詞が存在したこと自体、レベルの高い庭師には、当時から、身分とは別の評価が存在したとみるべきではないでしょうか。

そこで本日の一口アドバイス。

「禅思想と浄土的救済。義政の心の一端を伺わせる金閣寺庭園?」

(りょう)

 

 

 

 

 

銀閣と錦鏡池

 

 

 

 

 

東求堂と庭園

 

 

 

 

 

 

 

 

 

銀沙灘

 

 

 

 

 

洗月泉

 

 

 

 

 

 

座禅石

 

 

 

 

 

 

大内石

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お茶の井(室町時代のままの石組み)