りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,008

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・戦国文化と庭園との関係とは?

「戦国時代」について言及しました。この項では、同時代の文化と庭園との関係について検証します。

「戦国時代」の文化の特色としては、3つの基本項目を見逃すことが出来ません。1つ目は、「東山文化」の発展形であると言う事。2つ目は、対象層のさらなる拡大。3つ目は、戦国時代前期と後期戸の変化。以上です。

戦国時代前期の文化は、「東山文化」を踏襲したものです。時代の部分的重複もあり、当然の事。ただし、発展と見るか、退化と見るかは意見の分かれるところでしょう。具体的には、当時の代表的作品や芸術・芸能の種類を見れば分かります。戦国時代前期の文化と言えば、能(猿楽)、茶道、絵画、華道、和歌・連歌、包丁(料理)、鷹狩、囲碁・将棋、などで、特に重要ポイントとなる、能、絵画、茶、は「東山文化」からの部分的変化と見るべきでしょう。

文化の対象層としては、公家、将軍家から、有力武士(守護大名~戦国大名、等)、平民の富裕層などがあり、特に平民の富裕層が加わったことが、大きな変化をもたらすことになります。そのもっとも顕著な例が茶道で、それ以前の文化とは異なる経路で発展を遂げます。

茶道の原点は喫茶習慣にあり、ルーツは勿論中国。日本には平安時代にはすでに導入されていましたが、大きな注目を集めるようになったのは、鎌倉時代以降で、やはり臨済宗の僧侶が深く関係しています。特に、日本の臨済宗開祖の一人栄西は、茶道普及のきっかけを作った(おそらく、抹茶を使った茶道)人物としても有名です。さらに、茶室が造られるようになり、ある程度様式化されながら、将軍家など一部の高級武士の間に広がっていきます。

ただし、ここからそれまでの文化とは異なった動きを見せます。自由都市・堺の新たに出現した平民富裕層へと飛び火し、そこから逆輸入のような形で戦国大名へと流行が拡大し行ったからです。さらに、織田信長が茶道を重視したこともあり、政治との絡みも深まり、安土桃山時代(戦国時代後期)へと引き継がれ、更なる発展を見せることは衆知のとおり。その代表的存在が千利休で、わび・さびの世界が重要視されるようになります。

しかし、この時点で派手好みの「安土・桃山文化」との軋轢が生まれ、象徴的なエピソードとして、金の茶室を造ろうとした豊臣秀吉と、それに異を唱えた千利休の対立などが伝えられています。また、茶室とセットされた「露地」(茶室用の庭園)も後に生まれますが、「戦国時代」はその前段階と考えるべきでしょう。

3つ目の、戦国時代前期と後期との文化の変化・相違に関しては、既に一部提示した通り。織田信長、豊臣秀吉の派手好みの影響で、「安土・桃山時代」には前期と異なる、絢爛豪華な作品が続々と登場します。その変化を最もよく表しているのが絵画の世界。一見は百聞に如かずで、室町時代~戦国時代前期を代表する画家、雪舟、雪村、狩野正信と、安土・桃山時代を代表する画家、狩野永徳の作品を掲載しておきますので、相違を確認してください。

これらの影響を受けた庭園にも徐々に変化が生まれます。ただ、応仁の乱で名庭の大部分が消失し、戦禍の中で造られた新たな作品はごく一部にすぎません。しかも、殆どが名門の地方大名に関連するもの。従って、日本庭園の不遇時代とも言えるわけですが、その限られた軌跡を、次項から追っていきます。

そこで本日の一口アドバイス。

「戦国時代前期の文化と、安土・桃山時代の文化との決定的相違とは?」

(りょう)

 

 

 

 

 

 

 

雪舟(1420~1506年):山水画

 

 

 

 

 

 

 

 

雪村(1504~1589年):風濤図

 

 

 

 

 

 

 

 

狩野正信(1530年没):周茂叔愛蓮図

 

 

 

狩野永徳(1543~1590年):檜図

 

 

 

 

 

 

 

 

高桐院:細川忠興が1602年、大徳寺内に造った多塔頭寺院

 

 

 

 

 

 

 

松向軒:高桐院内の細川忠興が造った茶室