りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,009

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・戦国前期の庭園「朝倉氏遺跡」!

「戦国時代」の歴史・文化について延べました。この項からは、それを予備知識として当時の「庭園」について検証します。まずは、織田信長がほぼ全国を統一する以前(戦国時代前期)の作品について。

「一乗谷朝倉氏遺跡」

応仁の乱等により、多くの庭園が失われました。特に中央(京都とその周辺)においては悲惨な状況にありました。また、その後も戦乱が続き、戦国時代前期に注目すべき庭園は殆ど造られませんでした。従って、この時期は日本庭園の暗黒時代と言うことが出来ます。ただ、地方の特に名門と言われる守護大名等が比較的長く存続したエリアでは、わずかですが同時代の庭園の姿を探ることが出来ます。

その典型ともいえる遺跡(作品)が、「一乗谷朝倉氏遺跡」の庭園です。通常我々が朝倉氏と呼ぶのは、越前朝倉氏の事で、斯波氏から同地の守護職を受け継いだ名門です。つまり、越前(主に現在の福井県)エリアは織田信長に滅ぼされるまでは、比較的下剋上の争いが少ない地域であったと言うこと。だからこそ、庭園を含む歴史的建造物が残されたのでしょう。

「一乗谷朝倉氏遺跡」は、福井県城ノ内町にあり、全体が278haに及ぶ広大な遺跡です。そのルーツは南北朝時代にさかのぼり、1573年に第11代当主・朝倉義景が信長に滅ぼされるまで栄えました。特に、応仁の乱後には京都を追われた多くの公家が朝倉氏を頼り訪れたと伝えられ、同地により多くの文化的建造物が造られることになったようです。足利氏最後の15代将軍・義秋(後に義昭と改名)も1568年に同地に庇護されています。

「一乗谷朝倉氏遺跡」の庭園も発掘・保存され公開されています。「湯殿跡庭園」「南陽寺跡庭園」「諏訪館跡庭園」「朝倉館跡庭園」の4つ(遺跡案内図参照)があり、各々が貴重な歴史的資料となっていることは、言うまでもありません。

「湯殿跡庭園」は16世紀当初・朝倉孝景時代のもので、海抜63mと言う4庭園で最も高い位置にあります。豪壮な石組みが特色の林泉式庭園で、池尻石、石橋、亀島、鶴石、などが当時の庭園様式をよく伝えているとのこと。

「南陽寺跡庭園」は朝倉館の北側にあり、尼寺に併設された庭園でしたが、現在は庭の一部のみが保存されています。

「諏訪館跡庭園」は4庭園中最大で、上下2段構成の回遊式庭園。上段には滝石組・湧泉石組、下段にも滝石組があり、その滝石組は我が国最大と言われています。なお、諏訪館とは朝倉義景の側室・小少のために造られた館でした。

「朝倉館跡庭園」は数寄屋と呼ばれる来客用館の周りに造られた庭園。1968年に発掘され、東側は池・滝組などで構成される池泉式庭園、西側は枯山水式庭園と言うレイアウトになっています。

そこで本日の一口アドバイス。

「名門・越前朝倉氏が残した戦国時代前期の名園=一乗谷遺跡庭園!」

(りょう)

 

 

 

 

 

一乗谷朝倉氏遺跡:案内図

 

 

 

 

 

湯殿跡庭園

 

 

 

 

 

南陽寺跡庭園

 

 

 

 

 

諏訪館跡庭園

 

 

 

 

 

朝倉館跡庭園

 

 

 

 

 

朝倉館外構

 

 

 

 

 

 

朝倉館跡:唐門