りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,011

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・戦国前期の庭園「朽木氏館跡」!

「戦国時代前期」の庭園を紹介中。この項では「朽木氏館跡庭園」を取り上げます。

「朽木氏館跡庭園」

「朽木氏館跡庭園」は、滋賀県高島郡の朽木庄にあり、日本武将3大庭園(朝倉氏、北畠氏、朽木氏)の1つとも称されています。その名前が示す通り、朽木氏の館内に造られた庭園ですが、後に秀隣寺と言う寺院となったため、「旧秀隣寺庭園」と呼ばれることもあります。また、少しややこしくなりますが、秀隣寺は後に移転し、その後興聖寺となったため、現在は興聖寺内にある庭園という事になります。

朽木氏の歴史は古く、佐々木信綱(1181?~1242年、平安末期~鎌倉時代前期の武将で、同幕府の有力御家人)に端を発し、信綱の次男・佐々木頼綱が同地に居を構えたのが発端。また、頼綱の3男・義綱が朽木義綱と称したことがその名のスタートとされています。

鎌倉幕府滅亡後も、足利氏(室町幕府)と良好な関係を築き、戦国時代後期(安土・桃山時代)には織田信長、豊臣秀吉に歩調を合わせ、さらに、関ヶ原の合戦では西軍につきますが、東軍への内通者となったため、江戸時代でも存続を許され、後に若年寄(江戸時代の重職)となるなど、むしろその地位を磐石なものとしていきます。

特に、室町時代の末期においては、勢力を失い流浪状態の将軍が一時期朽木に身を寄せるなど、政治的にも重要な役割を果たします。つまり、朽木氏は名門でありながら、時代の状況を冷静に見つめ、混乱の世を生き残ってきた数少ない大名とも言えます。また、滋賀県高島郡と言う、重要な位置関係にありながらも、大都市部から離れた山里であったため、災禍からも免れました。だからこそ、庭園遺跡など、重要な建造物を当時に近い姿で残すことが出来たのでしょう。

「朽木氏館跡庭園」は、複雑な水路を中心とした曲水式庭園です。メインとなる流れ(川)には、亀島、石橋、鶴島か配され(写真参照)、全体は豪壮でかなりの巨石が使用されていながらも、バランス感覚抜群の構成で高い評価を受けています。特に、鶴島は蓬莱山を表しているとも言われ、現在は巨木が生え、より深みのある景観を創りだしています。このため、京都の庭師を呼び造らせたか、あるいはその影響を強く受けた人物の作品とする説が有力。また、長い歴史を持つ朽木氏ですが、その作風等から、戦国時代前期の代表作とされています。

朽木エリアは、発掘・整備も次第に進み、歴史的寺院も含め魅力ある散策アリアともなっています。庭園・歴史・自然とのつながりを求め、訪れてみるのもお勧め・・・

そこで本日の一口アドバイス。

「戦国の荒々しさの中にも独特の優美さ・・・それが、朽木氏館跡庭園!」

(りょう)

 

 

 

 

 

興聖寺本堂

 

 

 

 

 

 

朽木氏館跡庭園全景(橋手前が亀島)

 

 

 

 

 

 

石橋と鶴島(蓬莱山とも)

 

 

 

 

 

 

 

 

鶴島の後ろ側