りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,015

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・戦国後期の庭園「三宝院」①!

「戦国時代前期」の庭園を紹介中。この項では「圓徳院」に続き「三宝院」を取り上げます。

「三宝院」①

「三宝院」は京都市伏見区醍醐にある、醍醐寺の子院で、真言宗醍醐派に属し、修験道当山派の本山でもあります。しかし、醍醐と言う名称から直結するのは、豊臣秀吉&醍醐の花見(1598年)と言う事になるでしょう。事実、「三宝院」と「三宝院庭園」は両者との結びつきが極めて強い、歴史的建造物でもあります。

ただし、「三宝院」の寺歴はもっと古く、平安時代後期の1115年に、左大臣・源俊房の子で醍醐寺14世座主・勝覚が灌頂院(僧侶としての身分を与える場所)として創建したとされています。後に仏教の最も重要な要素・三宝にちなみ「三宝院」と名付けられ、鳥羽上皇の御願寺にもなりました。鎌倉時代には、成賢・憲深・賢俊などの高僧を輩出し、室町時代に入っても足利尊氏等に庇護されるなど、更なる発展を遂げますが、ご多分に漏れず応仁の乱で消失してしまいます。しかし、戦国時代後期」(安土・桃山時代)に入り、醍醐寺金剛輪院の院主・義演が「三宝院」32世を名乗り、再興しました。ただし、義演が「三宝院」を再興できた背景には、豊臣秀吉との親交が深く、その力がありました。と言うより、再興後まもなく有名な醍醐の花見が催され、醍醐寺や「三宝院」とその庭園の整備には、当初から大イベント用として活用し、かつ秀吉の威信を示そうと言う目的があったと考えられます。

つまり、幻の聚楽第と共に、「三宝院」には城以外での最高峰の建造物を創ると言う意図が働いていたと考えられます。また、義演は豊臣秀吉だけではなく、徳川家康との親交も深く、江戸幕府からも支援を受け更なる発展を遂げます。従って、江戸時代に入ってからも、部分的な改修・増築等が行われ、安土・桃山~江戸初期の技術・芸術の粋を集めた作品となり、今日に伝わっています。

本題の「三宝院庭園」の検証に入る前に、「三宝院」の各部説明用の平面図を掲載し、それに対応する施設を列記しておきます。参考にしていただければ幸いです。

「三宝院」(平面図参照)詳細・・・①:葵の間 ②:秋草の間 ③:勅使之間(重要文化財) ④:唐門(国宝) ⑤:表書院(国宝) ⑥:表書院 ⑦:亀島 ⑧:鶴島 ⑨:加茂石 ⑩:藤戸石(三尊石) ⑪:豊国大明神 ⑫-1:枕流亭(茶室) ⑫-2:三段の滝組 ⑬:純浄観(重要文化財、非公開) ⑭-1:本堂(重要文化財、非公開) ⑭-2:苔庭 ⑮-1:奥宸殿(重要文化財) ⑮-2:松月亭(茶室)

 

 

 

 

 

 

 

 

そこで本日の一口アドバイス。

「当初から大イベント用として再興された?醍醐・三宝院!」

(りょう)

 

 

 

 

大玄関

 

 

 

 

 

唐門(国宝)