りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,019

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・戦国時代の作庭家とその実像?

「戦国時代」の庭園について検証しました。続いて、一つの日本庭園黄金期とも言える「江戸時代初期」にテーマが移るわけですが、その前に、同時代の作庭家、庭園の特性、鎌倉~戦国時代後期までの庭園書、について考えます。まず、この項では作庭家について・・・

 

この「日本庭園***」シリーズには、橘俊綱(平安時代)、夢窓疎石(鎌倉後期~室町前期)、善阿弥(室町時代)、相阿弥(室町時代)、賢庭(戦国後期~江戸初期)、小堀遠州(戦国後期~江戸初期)の6人の作庭家が登場しています。ただし、同じ作庭家と言っても、プランナー的な人と現場監督的な人に分かれ、前者は、橘俊綱・夢窓疎石・相阿弥・小堀遠州、後者は善阿弥・賢庭が当てはまります。

その違いは、前者はプラン作成や監修を行い、貴族・僧侶・上級武士・総合芸術家など、多様な顔を持っていました。一方、後者の場合は庭を造る職人~現場監督に昇格した人と考えられます。しかも、彼等は河原者(レベルの高い技能者集団を山水河原者)と呼ばれる、平民以下の身分の人たちでした。従って、あまり詳しい資料は残っていません。

「戦国時代」に目を転じると、登場人物の中で、相阿弥、賢庭、小堀遠州、の3名が対象と言う事になります。ただし、相阿弥については既に触れました。また、同時代ではもう一名・上田宗箇と言う重要人物がいます。従って、ここでは賢庭・小堀遠州・上田宗箇の3名を、戦国時代(実際には戦国時代後期~江戸時代初期)を代表する作庭家として取り上げておきます。

まず、賢庭ですが、戦国時代後期(安土・桃山時代)を代表する作庭家として、各方面にその名前が登場します。しかし、生・没年を含め殆ど詳しいことは分かりません。ただ、実務的作庭家(現場監督のような)であったことは間違いなく、特に石組に関して非凡なものを持っていたと伝えられています。彼がなぜ有名かと言うと、「圓徳院」「三宝院」「仙洞御所」「前田家の庭」等の作庭でその名前が登場するからです。また、善阿弥のような山水河原者であったとする説が有力で、後半は小堀遠州の傘下に入り作庭に従事したと言われています。

小堀遠州(1579~1647年、本名・政一)は戦国後期~江戸初期に活躍した大名です。茶人、建築家、作庭家など、多面的な活躍があり、上級武士・芸術家・建築造園家と言った多面的な顔を持つ人物でもあったわけで、遠州守と言う役職に就いたことがあり、ここらら遠州と呼ばれるようになりました。

作庭家としても著名で、遠州作と言われる多くの庭園を残しています。ただ、彼の作と証明されているのは「金地院庭園」だけで、実際には別の作庭家の作品が含まれている可能性もあります。また前述のように、賢庭も晩年は小堀遠州の傘下に入ったため、プランは遠州・実務は賢庭と言った作品も多いと考えるべきでしょう。

上田宗箇(1563~1650年、本名・安重)もまた遠州と同様、戦国後期~江戸初期の上級武士です。しかも、茶人(上田宗箇流の流祖)としても知られていたため、当時は上級武士で芸術家としての才能を持った人物は、茶道、建築、造園等に係ることが多かったとも考えられます。宗箇の作品としては、旧徳島城表御殿庭園、上田家の萬春園(広島)、名古屋城二の丸庭園、などが知られています。

そこで本日の一口アドバイス。

「江戸時代以前の庭園は芸術家と山水河原者の共同作業で・・・」

(りょう)

 

 

 

 

 

賢庭の石組?(圓徳院)

 

 

 

 

 

 

 

 

小堀遠州画

 

 

 

 

 

上田宗箇の甲冑と陣羽織