りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,040

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・2つの作庭書が語る排他主義!

「嵯峨流古法秘伝書」「山水並野形図」と言う2つの作庭書の全文を紹介しました。この項では、そこから見えてくる鎌倉時代~江戸時代草創期の庭園(造園)業界について考えてみたいと思います。

当時の著名な作庭者は、夢窓疎石に代表される僧侶、相阿彌に代表される大芸術家、小堀遠州・上田宗箇に代表される上級武士など、社会全般から見てもトップクラスの人々でした。その一方で、現場監督・職人手配・同管理など、実際の作業を行ったのは、山水河原者呼ばれる、作庭のプロ集団です。その2大代表が善阿彌・賢庭です。

少し時代を遡ると、平安時代にはより著名な作庭書「作庭記」(藤原頼道の子・橘俊綱著とする説が有力)が書かれ現存します。ただ、「作庭記」と「嵯峨流古法秘伝書」「山水並野形図」には、年代以上の決定的違いがあります。それは、「作庭記」は夢窓疎石のようなプランナー側の著書、「嵯峨流古法秘伝書」「山水並野形図」は善阿彌のような現場監督(または親方)側の著書であるといい事(「嵯峨流古法秘伝書」「山水並野形図」の著者は不明だが、内容から見てほぼ間違いない)。従って、記述内容に差があり、著者としてのレベルは「作庭記」のほうがはるかに上であることは間違いなく、ある意味仕方のないことです。

ただ、「作庭記」と「嵯峨流古法秘伝書」「山水並野形図」の間にはそれ以上の差を感じました。失礼な言い方ではありますが、「作庭記」は名著、「嵯峨流古法秘伝書」「山水並野形図」は駄作・・・そんな印象を受けたからです。では、筆者はなぜ両著を駄作と感じたのでしょうか。それは、技術書としては極めて中途半端であり、著書最大の目的は利権を守るためのもので、その意図が内容をより無意味なものとしているからです。

もう少し具体的に言うと、「嵯峨流古法秘伝書」「山水並野形図」には、ほとんど意味の無い固有名詞や決め事(大半は禁止事項)が多すぎると言う事。と言うよりも、無意味な固有名詞・決め事を連ねること自体が目的であったと推定されるからです。つまり、庭は自分たちにしか作れない、もし正しい作り方を知りたければ、自分たちに発注するか弟子入りせよ・・・そう主張するための著書であり、その利権主義が著書としての魅力を著しく低下させていると言う事です。

同時に、このような傾向は日本の文化全体に及ぶことでもありました。室町時代初期には、北山文化が花開き、やや退廃的になったとはいえ、その後東山文が登場し、両時代には日本の歴史上でも特筆すべき芸術家・作品を輩出します。しかし、安土桃山時代以降になると、芸術・文化に利権主義が蔓延し、発展の芽を摘まれたものも多数現れます。同時代以降に登場した、茶道・華道等の家元制度がその典型的な例です。

例えば、茶道の場合、江戸時代になるとより広がり、庭と言う視点では露地が登場するなど、進化し続けたようにも見えます。しかし、やたらと固有名詞・決め事が増え、臨済宗の栄西などが茶道に観た無限の広がりを持つ精神世界はどこかに追いやられていきます。極端な表現ですが、千利休を頂点とし、精神から形式の世界へと退化していったとも言えます。

日本庭園もまた同じような道を辿ったように思えてなりません。確かに、安土・桃山時代~江戸時代草創期には「醍醐・三宝院」に代表されるような、国宝級の庭園も登場します。また、前述のように「露地」と言う特有の作品も登場し、極めつけとして庭園の大交響曲とも言える「大名庭園」まで出現します。しかし、「三宝院」でさえ、あまりにも様式美を追求しすぎ整いすぎ、そんな印象を受けてしまいます。あくまでも筆者の私見ですが、誰も夢窓疎石を超えられなかった。そう感じます。そして、退化の一つの象徴が「嵯峨流古法秘伝書」「山水並野形図」であるように思えてなりません。

そして、このような余波が現在の造園業界にまで続いている・・・筆者はそう感じています。

そこで本日の一口アドバイス。

「秘伝書・家元制度などが象徴する、日本の利権・排他主義とは・・・」

(りょう)

 

 

 

 

 

臨済禅と庭園

 

 

 

 

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