りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,042

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・「江戸時代前期」の文化と大芸術家!

「江戸時代前期」と言う時代について検証中です。この項では、その文化特性と大芸術家について考えます。

室町時代前半には、武家と皇族・貴族の文化が融合した「北山文化」が生れました。続く室町時代中期~戦国時代には、スケールダウンし、やや退廃した「東山文化」が登場します。さらに、織田信長・豊臣秀吉と言う派手好みの支配者が登場し、「安土・桃山文化」へと引き継がれます。ただ、これらの文化は表面的には大きな変化があっても、本流は同じと見るべきでしょう。要するに、武家と言うものをベースとして生まれた文化で、「北山文化」を原点とし、各時代性がプラスされたと言う事です。

「江戸時代草創期」もほぼ同様と考えて良いでしょう。ただ、徳川家の専制、鎖国などの影響もあったのでしょう、閉鎖性・排他性と言う傾向が顕著になります。特に世襲制・特定人物だけへの伝達制度がその発展性を阻害します。初歩的な家元制度もこの頃確立されたと推定され、さらに大きなマイナス要因となりました。無意味な決まり・制度が過剰評価され、創造性がどんどん阻害されて行ったからです。例えば、茶の湯の世界では、様々なシステム(決め事)が「江戸時代草創期~江戸時代前期に確立されたようですが、千利休を超えるようなものは何も生れていません。

ただし、同時代に卓越した大芸術家が一人登場します。「本阿弥光悦」(1558~1637年)です。彼は、刀剣鑑定と言う特殊な世界から、総合芸術の世界へと足を踏み入れます。その出身の特殊性ゆえ、安土・桃山時代以降に顕著化する閉鎖性・排他性の世界に埋没することなく、自由に羽ばたいて行った、筆者はそう考えています。暴論でしょうか?

本阿弥光悦は、書と陶芸をベースに、総合芸術の世界を確立します。そして、徳川家康の庇護?(朝廷とのつながりもあり、影響力を恐れ遠ざけた、と言う説もある)もあり、1615年に通称・光悦村と呼ばれる芸術村を京都・洛北に開きます。そして、多方面に才能を発揮し、絵画の世界では、俵谷宗達・尾形光琳らとともに琳派の創始者にも名を連ねています。

ただ、彼の作品と呼ばれているもには、装飾性を徹底的に排除したもの(主に茶碗等の陶芸品)~極めて装飾性の高い物(主に漆器)まで様々。それを、幅広い芸術性の証と取るか、光悦以外の作品も彼のものとされたためと取るか、諸説があります。筆者は専門家ではありませんが、彼の書に俵谷宗達が絵を添えた作品(写真参照)、陶芸品など、間違いなく光悦作品と呼ばれているもの、初期の琳派作品(豪華な材料は使っているが、色使い・構図は極めてシンプル)などを見ると、後者の説が正しいように思えます。なお、「光悦村」はその後日蓮宗・光悦寺となり、庭園・外構の世界でも、光悦寺垣にその名が残されています。

「江戸時代草創期」~「元禄時代」(江戸時代前期の終盤)になると、もう一つの文化が登場します。「元禄文化」と呼ばれるもので、上方(大坂・京都)の町人を中心に定着していきます。俳句の松尾芭蕉、小説の井原西鶴、文楽の竹本義太夫・近松門左衛門、歌舞伎の坂田藤十郎・市川團十郎、浮世絵の菱川師宣・・・などがその代表的存在で、統一性が無く雑然としているが、これまで以上のエネルギーを秘めた世界と言えるかもしれません。

いずれにしても、「江戸時代前期」の文化は、伝統的な部分では排他性が目立ち、表面上は広がったが、矮小な世界に埋没した。その一方で、上方の町人をベースに「元禄文化」は生まれ、大都市中心に爆発的なエネルギー秘め、広がって行った。このような2極性を持っていた。そう考えて良いでしょう。では、庭園の世界は・・・

そこで本日の一口アドバイス。

「伝統的芸術は排他主義の横行で低迷。その一方で町人文化も・・・」

(りょう)

 

 

 

蓮下絵和歌巻:書・本阿弥光悦、画・俵谷宗達

 

 

 

燕子花図:尾形光琳

 

 

 

 

 

 

 

 

見返り美人図:菱川師宣