りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,056

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・上田宗箇の作品「和歌山城の庭」!

「上田宗箇」の作品を紹介中。「旧徳島城表御殿庭園」に続き、この項では「和歌山城西の丸庭園」を取り上げます。

「和歌山城」は言うまでもなく、御三家の一つ・徳川紀州家の居城です。ただし、最初の築城主は豊臣秀吉(1585年)で、その後紀州家が引き継ぎ、天守閣は1605年または1619年に造られたとされています。形式は、平山城で、所在地は和歌山市一番丁。

「和歌山城」は、秀吉の弟・豊臣秀長が紀州征伐の副将となり参戦し、同地平定後に紀伊・和泉の2国を加増され、それと並行して築城されました。関ヶ原の戦い後は、東軍に属した桑山一晴が2万石を家康から与えられ城主に。しかし、間もなく大和新庄藩に転封となり、徳川家譜代の浅野幸長が36.7万石の大大名として赴任し礎を築きます。しかし、彼もまた広島へ転封となり、その後に家康の10男・徳川頼宣が55.5万石で赴任し、紀州の御三家と呼ばれるようになり、江戸時代には一貫した統治者となります。

また、1655年・1813年・1846年の3度にわたる災禍(火災等)で、城郭の多くが消失。徳川時代は城の改修には厳しい規制がありましたが、「和歌山城」は御三家で例外扱いされ、その都度再建されたようです。ただし、大政奉還後は他の城と同様に廃城(1871年)となり、大部分が解体されました。また、解体部材の多くは大阪城に移築されたとのこと。その後、1901年の一般公開を機に、何度も復元・改修作業が行われ、現在に至っています。

「和歌山城西の丸庭園」は、上記歴史を見ても明らかなように、江戸時代初期に西の丸御殿と同時進行で造られました。作庭者は「上田宗箇」で、城の北西山麓と言う地形を活かした立体的構成となっています。ただし、他の部分同様に災禍に見舞われ、長い間崩壊状況にありました。しかし、幸いなことに発掘調査・図面等を元に、かなり作庭当初に近い姿での復元・再建が進んでいます。

1972年には、鳶魚閣(ただし、作庭当初の場所と異なる)も忠実に復元。さらに、松下幸之助が茶室・紅松庵を寄贈したこともあり、「上田宗箇」と初期の大名庭園の面影を残す、貴重な名庭として現代に引き継がれました。勿論、国の名勝にも指定されています。

なお、「上田宗箇」は、関ヶ原の戦いで西軍に属し、領地没収となり剃髪します。その後、姻戚関係にあった浅野家に迎えられ、1万石を拝領します。当然、「和歌山城西の丸庭園」はこの頃の作庭と見て良いでしょう。また、同地に近い「粉河寺庭園」もほぼ同時期に造られました。

そこで本日の一口アドバイス。

「敗将・宗箇の不遇時代~その後和歌山で復活~西の丸庭園を作庭!」

(りょう)

 

 

 

 

 

和歌山城案内図

 

 

 

 

 

和歌山城・岡口門

 

 

 

 

 

和歌山城・追廻門

 

 

 

 

 

西の丸庭園・鳶魚閣

 

 

 

 

 

西の丸庭園:紅葉渓

 

 

 

 

 

茶室・紅松庵と露地