りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,060

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・上田宗箇の本当の姿とは?

「上田宗箇」の作品を6つ紹介しました。その作品が持つ特性と、彼の人物像を手掛かりに、「宗箇」の実像に迫りたいと思います。

「上田宗箇」については、既に一部紹介済みです。従って、重複部分もありますが、改めてその生涯とはどのようなものであったか、確認しておきます。

「上田宗箇(うえだそうこ)」は1563年(永禄6年)に、尾張国愛知郡(現名古屋市)で、丹羽長秀の家臣・上田重元の子として誕生。父が10歳の時に死去し、以後は叔父・重氏に育てられました。元服後は丹羽家家臣として転戦。本能寺の変では元織田信長の家臣でしたが、明智光秀の娘婿であったため津田信澄を「宗箇」が急襲し彼の首を挙げます。その後も武将として活躍を続け、越前国で1万石の大名となり、さらには丹羽家から豊臣秀吉直属の部下に。そして、同時代には吉田重燃(織部)に茶道を学び、芸術家としての素養も身に着けます。また、秀吉の正室・寧々(高台院)の従姉妹・とくを正室に迎えます。

このように、秀吉との主従関係もあり、関ヶ原の戦いでは西軍につき敗戦。当然のことながら、「宗箇」は人生最大の危機を迎え、領地没収・摂津国(大坂)に流遇~剃髪。しかし、彼の評価は高く、蜂須賀家政の客将となり阿波国(徳島)に住み、この時「旧徳島城御殿庭園」を作庭。さらには、姻戚関係があった紀州藩・浅野家の家臣となり、再び1万石の大名に復帰。この時代に「和歌山城西の丸庭園」「粉河寺庭園」を作庭。その後、浅野家は広島に移封となり「宗箇」も同地で1.2万石を所領。また、「縮景園」等も作庭。

以後は、茶道と造園を趣味としながら、1650年に87年に及ぶ生涯を閉じます。この間にも、徳川将軍家の依頼で「名古屋城二の丸庭園」を作庭。さらに、徳川将軍家への出仕を促されますが、彼は断り続け、嫡男・重秀をその任に着けます。つまり、「宗箇」は将軍家からも非常に高い評価を受けていたと言う事。しかし、西軍についたと言う過去にこだわり、粛々と晩年を過ごします。なお「宗箇」は号であり、幼名は「佐太郎」、元服後の名は「重安」。

大名(武人)であり芸術家(特に作庭&茶道)。安土・桃山~江戸初期に活躍。このような共通性から「小堀遠州」と「上田宗箇」は非常に共通点が多いと考えがちです。しかし、一歩踏み込むと、正反対の側面が見えます。世渡り上手と頑固な一徹者、武人から芸術家への転身&武人の延長上の芸術、形式・様式主義&精神・哲学優先・・・などです。

庭園だけをとっても、「遠州」作品は非常に形式的で、作庭書「嵯峨流古法秘伝書」「山水並野形図」に示されるような煩雑さを重視し、流派へのこだわりが。結果、「遠州」直接の顔が一向に見えてきません。一方、「宗箇」の庭は、豪壮な石組に共通性があります。武将イズムの上に成り立ち、形式には無頓着です。そこに、より高い精神性・哲学性を感じます。さらに言うなら、「宗箇」の人生・庭園は非常にわかりやすく、はっきりと彼個人の顔を見ることが出来ます。そして、筆者は「宗箇」により大きな魅力を感じます。

「遠州」「宗箇」は共に茶道の流派を現代に伝えています。ただ「宗箇流」は、武家茶道と言う表現を使っています。「遠州流」は流派&形式主義重視の茶道、「宗箇流」は来る者拒まずの自由と精神性重視の茶道。筆者はそのようなイメージを持つのですが、誤りでしょうか・・・

そこで本日の一口アドバイス。

「最後まで武将=上田宗箇。そこに形式を超えた精神&哲学性を・・・」

(りょう)

 

 

 

 

和風堂(「宗箇流茶道」の拠点)内の露地

 

 

 

 

 

 

 

 

和風堂内の茶室「遠鐘」

 

 

 

 

 

広電内に造られた茶室「遠鐘」

 

 

 

 

 

 

「宗箇」が所有していた織部茶碗

 

 

 

 

 

 

 

 

「宗箇」イベントのパンフレット