「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,078
「日本庭園と日本外構 編」・・・「新発田藩・清水庭園」の魅力!
江戸時代前期の「大名庭園」を紹介中。この項からは、江戸(東京)から地方に対象を移して紹介します。まずは新潟の「清水園」から・・・
「清水園(しみずえん)」は新潟県新発田市にある「大名庭園」で、柴田藩3代目藩主・溝口宣直1605〜1676年)の時代に、同地に藩の下屋敷「清水谷御殿」(地名をとった呼称)を造営。同御殿内に次代の4代目藩主・溝口重雄(1633〜1708年)の時に「清水園」が作庭されたと伝えられています。従って、1600年代終盤に骨格が出来た「大名庭園」と判断して良いでしょう。
「清水園(清水谷御殿)」の敷地は約15,200㎡あり、遠州流の茶人・懸宗知(幕府庭方と言う職務も担っていたと伝えられる)を招き作庭されました。また、江戸・元禄文化の影響を受け、藩主主催の茶会・能楽等がここで数多く開催されたと伝えられています。つまり、江戸時代には同園(御殿)が新潟地区への文化発生拠点となっていたと見てよいでしょう。
ただし、明治中期には沢海村の大地主伊藤家の所有に、さらに1946年(昭和21年)には、北方文化博物館の管理するところとなり現在に至っています。この段階で、昭和の庭師・田中泰阿弥が修復作業を行っており、この時点で忠実に修復されたのか、新たな手が加わったのか不明。ただ、改修ではなく修復と言う言葉が使われており、「江戸時代前期の大名庭園」の姿がほぼ維持されたと推定すべきでしょう。また、そう願いたいものです。
「清水園」は池を中心とした池泉回遊式庭園(清水園案合図参照)で、池(大泉池)自体が「水」という字の形をしています。また、大泉池周辺に近江八景(琵琶湖景勝地:堅田の落雁、瀬田の夕照、粟津の晴嵐、唐崎の夜雨、三井の晩鐘、石山の秋月、矢崎の帰帆、比良の暮雪)を再現したフォーカルポイントが造られています。
主な建造物としては、大門(総門)・中門という2つの出入り口があり、庭内には、中心部に書院、他に、5つの茶室(桐庵、同仁斎、夕佳亭、松月亭、翠濤庵)、足軽長屋、武家屋敷跡(黒石亭)、その他の建物があり、園路等で結ばれています。
勿論、博物館管理の庭園であり、随時手が加えられ一般開放されています。また、定期的に茶会等も開催され、観光地・地元の人たちの憩いの場としても生き続けています。
そこで本日の一口アドバイス。
「江戸時代前期の代表的大名庭園+文化発生の拠点=清水園!」
(りょう)
大門
中門
大泉池 と茶室・夕佳亭
大泉池と足軽長屋(左)
書院内から景観
松月亭