りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,079

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・日本三大名園「兼六園」とは①?

江戸時代前期の「大名庭園」を紹介中。「清水園」に続き、この項からは同じ日本海側にある「兼六園」を紹介します。

「兼六園」は日本三大名園の一つにも数えられ、訪問したか否かは別としても、殆どの人がその名を知っている、日本屈指の名園です。勿論「加賀藩」が造った庭園で、金沢市にあることもご存知の方が多いでしょう。いずれにしても、この項と次項で、加賀藩の概要と「兼六園」とはどのような庭園であるかを改めて確認しておきます。

「加賀藩」は、豊臣秀吉の朋友ともいうべき前田利家(1538〜1599年)がその元を築いた日本屈指の名門かつ大藩。ただし、直接的には徳川幕府から利家の夫人・芳春院没後彼女に与えられた化粧領(婦女に対する生活補助として与えられた領地)と言う面白いスタート(これほど巨大な化粧領は稀)となっています。また、加賀藩は外様大名でありながら、102万石と言う日本最大の大藩であり、徳川将軍家との姻戚関係も多いと言う特殊性も持っていました。つまり、一般の藩とは別格であったことが分かります。勿論、その加賀藩の居城が金沢城であり、「兼六園」は金沢城の外郭を構成する庭園です。

「兼六園」の歴史をもう少し具体的に追うと、第4代藩主(第5代前田家当主)・前田綱紀が1676年(延宝4年)に同地に「蓮池亭(れんちてい)」を造り、その庭を「蓮池庭」と呼んだのが始まりとされています。現「兼六園」には門が7つありますが、その中の蓮池門を入ったあたりに当時の「蓮池亭」があったとの事。そして、同庭が「兼六園」と呼ばれるようになったのは12代藩主・前田斉泰(1811〜1884年 前田利家から数えると斉泰は前田家13代。ただし、利家は加賀藩主ではないため12代目藩主とするのが正しい)の時からで、この段階で拡張されほぼ現在の姿が整いました。

つまり、「兼六園」は江戸時代前期に作庭がスタートしたという事で、同時代の代表的「大名庭園」として取り上げました。しかし、実際には江戸時代前期〜終盤に至るまでの約200年に渡り、営々と造り続けられてきた名園と言った方が適切かもしれません。

また、明治になってからは、1871年に早くも一般公開がスタート。3年後の1974年には正式に公開され、1876年には兼六園観光案内組合も組織されています。つまり、文化と観光の都市・金沢の根幹を築いてきた貴重な存在でもあったわけで、今後も金沢城と共に、同役割を担いつつ発展を遂げていくことでしょう。

そこで本日の一口アドバイス。

「1676年から約200年に渡り造り続けられた名庭。それが兼六園!」

(りょう)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「兼六園」案内図

 

 

 

 

 

 

金沢城・石川門(重要文化財)

 

 

 

 

 

 

 

 

前田利家(前田家初代)

 

 

 

 

 

 

 

 

前田斉泰(前田家13代当主、加賀藩12代藩主)

 

 

 

 

 

 

広坂休憩所

 

 

 

 

昔の兼六園

 

 

 

兼六園画(石川県立歴史博物館所蔵)