りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,083

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・津山藩が残した庭園「衆楽園」!

江戸時代前期の「大名庭園」を紹介中ですが、この項では「津山藩」が残した「衆楽園」を取り上げます。

「津山藩」は美作(みまさか)国の大半を領有していました。藩庁は津山城(岡山県津山市)に置かれ、「衆楽園」も同藩が造った津山城に付随する庭園です。

関ケ原の合戦(1600年)後、小早川秀秋が美作国の領主となります。しかし、彼には子供が無く廃絶となります。そして、翌年(1603年)信濃川沿いにあった中島藩・森可成の弟・忠政が18万6千5百国にて入封し「津山藩」が成立します。また、初代藩主・森忠政は地名を鶴山から現在の津山に改め、1604年から築城に着手し1616年に完成。この間に津山の街の骨格と藩政の基礎が整いました。

ただし、「津山藩」は世継ぎ発狂と言う不幸に見舞われ、1698年に越前松平氏の分家・松平宣富が10万石で入封し、明治の廃藩まで松平氏が同地を収めます。従って、美作国(津山城主)はそれ以前の山名氏〜小早川氏(3年間のみ)〜森氏〜松平氏と藩主が変わり、明治に至ります。

「衆楽園」(2002年に国の名勝指定)は旧津山藩別邸に併設された庭園です。現在の位置関係を見ると、津山城の北約1㎞にあり、城と「衆楽園」の間には県立美作高校・市役所などがあり分断しています。このため、城とは別の庭園のように見えますが、「聚楽園」自体の規模が現在の3倍近く(当時74,700㎡、現在は28,000㎡)あった事、周辺を含めると津山城自体も縮小されていると言った事情を加味すると、城内ではないがほぼ城に併設された庭園(藩主別邸)であったと考えるべきでしょう。

「聚楽園」は2代目藩主・森長継が小堀遠州流の造園師を招き造らせたとされています。従って、その骨格は江戸時代前期に造られた「大名庭園」と見て間違いないでしょう。また、京都の仙洞御所も模したとも言われており、様式は池泉回遊式庭園。ただし、「衆楽園」と言う名前は明治3年に付けられたもので、それ以前は特別な名称が無かったとの事。

前述のとおり「衆楽園」は規模が3分の1程度になっています。従って、江戸時代の面影をどこまで残しているのか、正確に知ることは困難かもしれません。それを前提に、現在の「衆楽園」を観ると、庭の大半が池で締められ、その中に4つの島が配されています。同時に、近隣の山(中国山地)を借景とし、それと釣り合うように、池の北部には東と北に2つの築山があります。また、東側には210mに及ぶ曲水(彎曲した水路)設けられ、老松等の森閑とした植栽とが見事に調和しています。

池の周辺には余芳閣、迎賓館、風月軒、清涼軒、などの建造物(すべて復元物)があり、風景に溶け込んでいますが、庭石・灯篭と言った物は殆どなく、建造物以外は自然の景観重視の庭園であることが分かります。

余談ですが、モデルとなったと言われる仙洞御所庭園は小堀遠州が作庭しましたが、後に後水尾天皇により貴族風に大改造されています。「衆楽園」は本当に遠州流なのでしょうか?それとも、後水尾天皇趣味の貴族風庭園?なのでしょうか・・・

そこで本日の一口アドバイス。

「内陸・美作国に登場した京風の優美な大名庭園=衆楽園!」

(りょう)

 

 

 

 

 

津山城・備中櫓(2005年復元)

 

 

 

 

 

 

幕末の津山城

 

 

 

 

 

 

津山城模型

 

 

 

 

 

衆楽園

 

 

 

 

 

中之島

 

 

 

 

 

南の池

 

 

 

 

 

余芳閣と迎賓館

 

 

 

 

 

曲水