りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,084

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・讃岐・高松藩と「栗林公園」①!

江戸時代前期の「大名庭園」を紹介中。この項からは、日本三大庭園の上を行く?とも称される「栗林公園」と、それを作った「高松藩」を紹介します。ただし、歴史的見地(戦国〜江戸)から見れば、2つの高松が登場します。讃岐・高松と備中・高松(秀吉に滅ぼされた清水宗治の高松)です。今回は勿論讃岐・高松のお話。

讃岐地区は1600年代後半には豪族・佐藤氏が統治していました。ただし、高松藩直接の歴史は豊臣秀吉の命により1587年に17万3千石で領主として赴任した、生駒親正から始まります。そして、関ケ原の合戦(1600年)では親正の子・一正は東軍についたため、江戸時代に入ってもそのまま生駒氏が領主として留まります。

しかし、4代藩主・生駒高俊の時代(1640年)にお家騒動(生駒騒動)が勃発して、同氏は出羽国矢島藩に転封となり、高松藩は隣なりの伊予国3藩(西条藩、大洲藩、今治藩)の分割統治となります。ただ、この状態は不都合と徳川幕府が判断したのでしょう。翌1641年には讃岐西部には丸亀藩主として山崎家治(元因幡若桜藩主)が赴任。さらに、1642年には水戸家初代藩主・徳川頼房の長男・松平頼重が12万石で高松藩主となり、明治の廃藩置県まで統治します。

以上が、高松藩の概要。その説明に、前身ともいえる佐藤氏を加えたのには訳があります。本題の「栗林公園」を語るとき、そのスタートが佐藤氏にまで遡るからです。具体的には、16世紀後半に同氏が現「栗林公園」の西南部分に作庭を開始し、これが元となったからです。

その後、1625年に第4代藩主・生駒高俊が南湖一帯を整備し、「栗林公園」の原型が整います。さらに、高松藩は水戸・松平分家へと引き継がれますが、この段階でも手が加えられたことでしょう。そして、1745年には松平系5代藩主・頼恭(よりたか)が園内60景の命名を行い完成させたという記録があります。つまり、松平氏統治の約220年も「栗林公園」はその下屋敷として使用され続けたという事。

明治以降は、1875年に早くも県立公園として一般公開。1953年(昭和28年)には国の特別名勝に指定され、現在に至っています。従って、「栗林公園」は戦国時代をスタートとして、江戸時代前期に骨格が造られ、以後営々として作庭・整備が続けられてきた名庭と言う事が出来ます。

ただ、「栗林公園」は多くの「大名庭園」と異なり、高松城の北約3キロと、城とは隣接していません。つまり、同城とセットではないという事。高松城が讃岐国統治のための政治拠点とすれば、「栗林公園」は同等とも言える重要な文化拠点であったと考えてよいでしょう。

そこで本日の一口アドバイス。

「高松城とは別に文化拠点として発展した大庭園。それが栗林公園!」

(りょう)

 

 

 

 

 

高松城址・旧太鼓櫓

 

 

 

 

 

 

 

 

初代・生駒親正画

 

 

 

 

 

 

高松城下模型

 

 

 

 

 

栗林公園全景・飛来峰からの眺望

 

 

 

 

 

 

借景となる紫雲山