りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,086

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・熊本藩と「水前寺成趣園」!

江戸時代前期の「大名庭園」。この項では熊本藩が造った「水前寺成趣園」を取り上げます。

まず、熊本藩と「水前寺成趣園(すいぜんじじょうじゅえん)の関係について確認しておきます。肥後(熊本)周辺は、元々菊池・阿蘇・相良等の地方豪族が統治していました。しかし、安土・桃山時代には薩摩(鹿児島)・島津氏が勢力を拡大し進出。この時豊臣秀吉連合軍が島津を撃破し平定。その後、秀吉の命により、北部は加藤清正、南部は小西行長が統治します。

しかし、徳川時代への移行の影響で、小西氏(関ヶ原の合戦で西軍につき滅亡)、加藤氏(駿河大納言事件で1632年に滅亡)共に滅亡。その後、豊前小倉藩から細川忠興が54万石で肥後藩主として派遣され、熊本藩が成立。以後、細川氏が明治の廃藩置県まで同地を統治します。

従って、「水前寺成趣園」は細川氏が造った「大名庭園」と言うことに成ります。ただし、熊本城内(あるいは城に付随する庭園ではなく、御茶屋(領主が短期宿泊したり立ち寄ったりする広い意味の別邸)にセットされた庭園で、熊本城の南東約6キロの位置に造られました。

同御茶屋は「水前寺御茶屋」と呼ばれ、初代藩主・細川忠利が1636年頃から造営(作庭)がスタートしたとされています。つまり、赴任後間もなく城や政治体制の整備と並行して造られた御茶屋(庭園)と言う事に成ります。江戸時代前期の「大名庭園」に加えたのもこのためです。ただし、3代目藩主・細川綱利の時に「成趣園」の骨格が整った、1776年に馬場が設けられた、と言った記録があるなど、他の「大名庭園」同様、時代とともに進化して来ました。そして、現在も通称「水前寺公園」と呼ばれ、熊本市の代表的観光拠点となり、年間180万人もの人が訪れます。

「成趣園」と言う名称は、中国の詩人・陶淵明の詩「帰去来辞」の一節「園日渉以成趣」を引用したもので、桃山時代の作風を伝える池泉回遊式庭園と称されています。その他の特色としては、73,000㎡の大庭園、阿蘇の豊富な湧水を使った水の庭園、東海道五十三次を模した築山・石組・植栽が見事、昔は阿蘇山・飯田山・立田山等の借景が見事だった(現在は周辺開発により異変)・・・等を上げることが出来ます。

ただ、メイン建造物であった御茶屋「酔月亭」は1877年の西南戦争で焼失。現在の「古今伝授の間」はその跡地に桂宮家から贈られた由緒ある建物を、1912年(大正元年)に移築したもので、杉戸の絵・雲龍は狩野永徳の筆によるものです。

そこで本日の一口アドバイス。

「御茶屋が進化した桃山様の大名庭園、それが水前寺成趣園!」

(りょう)

 

 

 

 

 

熊本城(左・大天守、右・小天守)

 

 

 

 

 

 

 

 

初代藩主・細川忠利画

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

成趣園案内図

①:表参道鳥居 ②:出水神社本殿 ③:神水「長寿の水」 ④:能楽殿 ⑤:流鏑馬の馬場

⑥:古今東西の間からの庭園風景 ⑦:社務所からの庭園風景 ⑧:古今東西の間

⑨:湧水池と富士山 ⑩:成趣園池の朝霞 ⑪:御祭神細川忠利公銅像

 

 

 

 

 

成趣園全景

 

 

 

 

 

 

石橋前からの景観

 

 

 

 

 

湧水池

 

 

 

 

 

富士

 

 

 

 

 

流鏑の馬場

 

 

 

 

 

古今東西の間