りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,089

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・群馬・小幡藩が造った「楽山園」!

江戸時代前期の「大名庭園」、最後に登場するのは小幡藩の「楽山園」。と言っても、藩名、同庭園共に、地元の方以外で知る人は少ないのではないでしょうか。従って、まずは歴史的位置付けから・・・

小幡藩は群馬県甘楽(かんら)郡甘楽町小幡にある小幡陣屋(城)をベースに同地を統治。「楽山園」は同城に併設された「大名庭園」です。ただ、当初藩主が奥平信昌(家康の娘婿)〜水野忠清〜織田信雄(織田信長の次男)〜永井直勝(元徳川家直臣)〜織田信良(織田信雄の4男=織田信長の孫、1617年に入封)と変わります。藩の規模は3万石前後と小さいのですが、藩の系譜でも分かるように、織田氏と言う名門が長期統治したため、特別待遇(国主格)であったとの事。だからこそ、「楽山園」と言う名庭を造ることが出来なのでしょうか。

ただ、その後財政難+明和事件(1766年、幕府の尊王論者弾圧)で第7代当主・織田信邦の時に蟄居を命じられ崩壊。その後織田家に変わり、若年寄の松平忠恒が2万石で藩主を務め明治を迎えます。ただ、財政難は続き藩ばかりではなく、領内の荒廃が続いたとの事。

「楽山園」は織田氏が築いた「大名庭園」ですが、どの時代にどの程度の完成度であったかは不明。ただ、財政難などのその後の歴史を考慮すると、1600年代前・中期に骨格が固まったと見るべきでしょう。従って、江戸時代前期の「大名庭園」とするのが妥当。

庭園様式的に見ても、池泉回遊式ではあるが、戦国時代の「武将庭園」〜「大名庭園」への過渡期の特性を持つとされ、時代考証の1つの裏付けと言えるかもしれません。また、京都の「桂離宮」と類似性がある、中国・昆明の景観を取り入れているとも・・・ なお、「楽山園」と言う名前は、論語の「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」と言う故事から取られ、織田氏の文化意識の高さを反映している命名と言えるかもしれません。

ただし、財政難や明治以降の事情も影響したのでしょう。小幡陣屋(城)、「楽山園」共に長い間崩壊状態にありました。しかし、2000年代に入り発掘調査、復元事業に力が入れられ、2012年に一定の完成を見て正式開園。従って、現在はその復元された建造物と庭園をいつでも観ることが出来ます。また、今後も新しい観光地・名所として進化を続けることでしょう。

以上で、江戸時代前期の「大名庭園」紹介を終えます。また、次項からは江戸時代中期とその庭園・外構にスポットをあてます。前期と中期ではどのような変化が見られるのでしょうか・・・

そこで本日の一口アドバイス。

「名門織田氏が築いた大名庭園・楽山園。だが、そこには苦難の歴史も!」

(りょう)

小幡陣屋・楽山園案内図

 

 

 

 

 

 

小幡陣屋跡

 

 

 

楽山園全景

 

 

 

 

 

左・梅の茶屋 右・凌雲亭

 

 

 

 

 

梅の茶屋

 

 

 

 

 

 

庭園南東部の泉水

 

 

 

 

 

 

中門