りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,109

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・宇和島藩が造った「天赦園」とは?

「江戸時代後期」に造られた「大名庭園」を紹介中。最後に登場するのは「宇和島藩」の「天赦園」です。

最初に「宇和島藩」について確認しておきます。同藩は伊予国宇和島(現在の愛媛官宇和島市)とその周辺を統治し、藩庁は「宇和島城」に置かれていました。宇和島は愛媛県の西部の位置し、湾・豊後水道を隔てて九州とも対面しています。つまり、古くから海上交通の重要拠点で、平安時代には海賊の巣窟でもありました。その代表が藤原純友で、反乱を起こしたことでも広く知られています。

その後、藤原北家傍流の伊予西園寺氏(室町時代)、大内義孝・毛利元就・大友宗麟・土佐一条氏・長宗我部氏・小早川隆景(戦国時代)と統治者が変わり、豊臣秀吉の時代には戸田勝隆(伊予大洲領主)領主となります。ただ、これが暴君(異説もあり)で同地区が混乱状況に至ったと伝えられています。しかし、勝隆には世継ぎがなく急死したため戸田家も1595年に滅亡。その後、藤堂高虎(秀吉の家臣)が赴任しようやく政権が安定します。ただ、彼は関ケ原の合戦で東軍につきその功績が認められ、1608年に伊勢の津藩(三重県)栄転転封。

この時、宇和島には藤堂氏との交代で伊勢から富田信孝が10.19万石で入封。しかし、富田家にも混乱が絶えず、幕府代官として藤堂良勝が入り一定の処置を完了した後、1614年に伊達秀宗が板島丸串城(宇和島城)に入り、ようやく伊達氏が恒久的統治者となり現代に至ります。宇和島は中央から遠く離れており、かつ重要な海上拠点だけに勢力争いが絶えず、その混乱が江戸時代前期まで続いたという事でしょう。

現在の「宇和島城」を築きあげたのは勿論伊達氏。そして本題の「天赦園」は同城に隣接(南西数百メートルの位置)した「大名庭園」で、7代城主・伊達宗紀が1868年(慶応3年)に築庭。その園名も宗紀が詠んだ漢詩(ベースは伊達政宗の作品)「馬上少年過(馬上に少年過ぎ) 世平白髪多(世は平にして白髪多し) 残躯天所赦(残躯は天の赦す所) 不楽是如何(楽しまずして是如何)」によるもの。つまり、彼の余生を十分楽しみたい、と言う趣旨が込められた庭園と言えます。

「天赦園」は周囲482m、面積12,778㎡の池泉回遊式庭園で、1968年に国の名勝にも指定されました。中央の大池が全体の3分の1を占め、その多くが樹林に覆われています。池内とその周辺には、蓬莱島、春雨亭、東屋岬、出島、陰陽石などが配され、中でも池に架かる白藤太鼓橋と対岸の神仙・浄土を的景観は同園最高のフォーカルポイントとなっています。ただ、ある意味仏教・道教のイメージが混淆した不思議な空間と言えるかもしれません。

そこで本日の一口アドバイス。

「老いた時に大いに楽しむ・・・そんな思いが込められた天赦園とは?」

(りょう)

 宇和島城天守閣

 藤堂高虎

 富田信高

 大池

 白藤太鼓橋

 春雨亭

 春雨亭からの景観

 綱引石