りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,133

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・作庭書「築山山水庭造伝・前篇上」⑨!

「山水築山庭造伝・前篇上」・・・北村援琴・秋里離島共著 1735年の作

41:地水火風空と庭との関連性

山水(庭)には地水火風空と言う5つの心すべき事柄がある。また、これは秘伝でもある。同分類によると、水は海だ。火は草木の花だ。風は咲くものを散らす存在だ。空はあらゆる草木とそれに付随する枝葉などの全部分(なぜが地の表記が脱落している?)だ。それを(空)を象徴する色は青(空の色)だ。同時にこの分類は五行(中国に伝わる自然哲学。全ての物は、土、水、火、金、木の5つの要素から成り立っているとするもの。陰陽説とセットし陰陽五行説として扱われる場合もある)にも通じる。五倫(儒教の基本理念。孟子の唱えた、仁、義、礼、知、信を最重要視する)にも通じる。だからこそ、最も重要で心理を伝えるものだ。また、五常(五倫と同様儒教の基本行動理念。仁、義、礼、知、信を最重視する)も同じく仁、義、礼、知、信から成り立っている。

42:庭を愛するがゆえに心得るべき事

夢窓国師(=夢窓疎石)は言った。古い時代から今に至るまで、山水(庭)には山を作り、石を設置し、樹木を植え、水を流す。このような構成を多くの人が愛し好んだと。ただ、このような景観は同じでも、そこへのこだわりは各人各様である。自分は大して面白くないと感じていても、訪問者から「素晴らしいお住まいですね」と言われたくて、樹木を植える人もいる。あるいは、多くのコンプレックスがあるため、無理をして貴重品を集めているうちに、庭の素晴らしさを知り、さらに珍しい石や木を求めるようになった人もいる。このような人は、庭の本当の素晴らしさを理解できない。塵芥のようなものを好む俗人にすぎない。

白楽天(唐の大詩人)は小さな池を作り。そこに竹を植えてそれをこよなく愛した。そして彼は「竹は素晴らしい。だから、心が落ち着かない時は、我が友とする。水は清いものであるから我が師匠とする」と述べた(この部分は白楽天作・池上竹下「水能性淡為我友 竹解心虚即我師」からの引用。ただし、水=我友・竹=我師であり明らかに間違い)。

世間の庭を好む人が、白楽天のようであれば、俗人となることが無く、本性自体が淡泊(ここでは清く美しいと言った意味)で、ただ詩を書き歌を詠み、池や川にユーモアをもって接し心の糧とすれであろう。自然を愛する心が豊かで(原文:烟霞痼疾<エンカのコシツ>)、池や水と遊ぶ(膏肓<コウモウ>を意訳。ただし、膏肓の本当の意味は、治らない<病膏肓=不治の病>、道楽が過ぎる、と言った意味で、言葉の使い方がも違っている)ことが出来るような人がそれに該当する。そして、このような人物こそ本当に心優しき人と言う。

たとえ白楽天とまでは行かなくても、本当の道を究めようとする心が無ければ、これまた輪廻(ここでは執着心と言った意味)の元となる。庭に対しても、自然な心(徒然)を求めて道を究めるための助けとすることこそ、最も貴い事である。しかしながら、庭と言うものを探求するには、貴と俗を差別してはいけない。それは真の探求にはならない。山、大地、草木、瓦、石、皆素晴らしい本当の姿を持っている。そう信じられる人でなくてはならない。

庭を愛すると言う事は、世間一般的な心情と似ている。一途に世の中の教えを探求心として、池(泉)、水、草、木などが四季により変化する様子を忠実に見つめその意味を知らなければならない。そうすることによって、本当に庭を愛する人となることが出来る。だから、蜜宗(明智光秀の子と言われる、安土桃山時代の僧。本徳寺を開基した)は(本徳寺の?)庭を見て、本当の自分を見つめることが、全ての悟りにつながる(六大法身当即自而真)と述べた。また、天台宗では、1つの現象や1つの香りのどれをとっても中道(天台宗or仏教では中道こそ真理につながるものとする)を示していないものなど存在しない(一色一香無非中道=天台智顗の言葉を弟子が纏めた「摩訶止観」に記された言葉)と述べている。人の迷い(小乗)を取り去るには、四季の変化を感じ取り、世の無常を知らなければならない(執着心の排除)。

補足事項:蜜宗については密教系全般の教えと解釈することもできる。

そこで本日の一口アドバイス。

「俗信を捨てる〜四季の変化・無常観=真の庭。でもどこかに無理が・・・」

(りょう)

218:天台智顗

 

 

 

 

 

 

天台智顗:中国天台宗の事実上の開祖